大陸暦1977年――11 一人の夜
「それじゃあまた明日な」
「はい。お気をつけて」
お家の前まで送ってくださったアルバさんをその場で見送ってから、仕事部屋の扉に手をかけた。そして開けようとして手に抵抗を感じる。鍵が、かかっている。
あれ……? と中の気配を視て、私はやっと思い出した。
今日、ベリト様がお出かけされていないことに。
私がお仕事から帰る時間帯はいつも、彼女はこの仕事部屋にいる。仮眠から起きてここで過ごされている。それはお仕事をするためではない。私のことを考えてくれてのことだ。
――家の前の通りは人通りが少ない。
ここならば、もしなにかあってもすぐに行けるから――。
私のお仕事が始まった途端、仮眠明けを居間ではなく仕事部屋で過ごすようになった理由を訊いたとき、彼女は気恥ずかしそうにそう教えてくれた。
その優しさが凄く嬉しかったのと、ここからならすぐにベリト様に会えるのもあって、それから私も玄関からではなく仕事部屋から帰宅するようになった。
もちろんベリト様が中央教会でお仕事があるとき以外は、だけれど。そのときだけはお戻りが遅くなると頭に入っているので、きちんと玄関から帰宅している。
今日だってそうだ。お仕事に行くときには帰ったらベリト様いないんだなと思っていたのに、お仕事をしているうちにすっかりそのことを忘れていた。
全く、と一人で苦笑して玄関に足を向ける。そして外套から鍵を取り出そうとしたそのとき、仕事部屋から音がした。続けてカチャと鍵が外れる音がして、扉が開く。デボラさんだ。
「おかえりなさい。フラウリア様」
「ただいま戻りました」
中に入るとデボラさんが扉の鍵をかけた。
「すみません。今日、ベリト様がおられないことを忘れていて」
「いいんですよ。いつも通りの行動って無意識に出てしまいますよね」
それは、本当にそうだ。
ベリト様がお仕事でおられないときも、彼女の仮眠中にデボラさんとお買い物に行ったときも、つい意識が玄関よりも先に仕事部屋に向いてしまう。それでも頭ではきちんとわかっているので、仕事部屋から入ろうとしたことは一度もない。
だけど今日は扉に手をかけるまでそれに気づかなかった。
彼女がここにいないことを忘れていた。
こんなことは、初めてのことだ。
なんだろう……ベリト様が今日いない、ということを頭が認めたくないのだろうか。
現実逃避、してしまっているのだろうか。
「フラウリア様は修道院におられたときからもこちらに出入りされていましたから、尚更にこちらが慣れていらっしゃいますよね」
それもその通りなのだけれど、でも、だからといって玄関から帰宅しないのってお行儀が悪くないだろうか――そう、今さらながらに心配になっていると、デボラさんがふふっと笑った。
「こちらも入口には間違いないのですから、ベリト様がいるときでもいらっしゃらないときでも気になさらず、こちらをお使いくださいな」
どうやら思っていたことが顔に出てしまっていたらしい。それはもういつものことなので仕方がないとして、そのお気遣いは本当にありがたいのだけれど。
「いえ、それは流石に。デボラさんが私の帰りをいつも気にしないといけなくなりますから」
デボラさんと廊下に出ながら私は言った。
仕事部屋は玄関とは違い、外から鍵が開けられない仕様だ。
その鍵が外されるのはベリト様が仕事部屋を使っているときだけで、彼女が部屋にも家にもいないときは必ず鍵がかかっている。だからそういうときに仕事部屋から帰宅するにはどうしても、デボラさんの協力が必要不可欠になってしまう。夕食の支度でお忙しい中、私の帰宅までも気にしてもらうのは流石に申し訳ない。
「あらあらフラウリア様。侮ってもらっては困りますねえ。これでも私、元凄腕の諜報員ですよ? どんな状況でも気配読みなんてお手の物です」
「ええと……それってつまり、自然と気配が視えてるってことですか?」
「はい。癖ですから。前職の職業病というやつですね」
職業病は以前にもベリト様から聞いたことがある。職業上で身についた癖や習慣のことだ。
「ずっと視てるのって疲れるのに、凄いですね」
練習がてら私も試したことがあるけれど、そのときは数十分も持たなかった。気配が視える状況を維持するのは結構、神経がすり減る行為なのだ。
「いえいえ、これにはコツがありまして。訓練すれば誰でも、とは言えませんがフラウリア様のような魔道士ならば必ず自然体で――そうですね、知った個人を判別するぐらいには視えるようになりますよ」
まぁ、普段の生活では必要のない能力ですが、とデボラさんが苦笑する。
「因みに誤解されたくないのでこの際、言っちゃいますが、いつもフラウリア様のご帰宅に気づいていながらもお出迎えしないのは、私なりに気遣わせていただいているからです。決して手が放せないとか、手間だと感じてるからとかではありませんからね」
気を遣う……? なにに対してだろうと考えて、すぐにその答えに思い至った。
私がお仕事から帰宅して、デボラさんに挨拶をする前に少しだけベリト様と過ごしていることを彼女は言っているのだ。
確かに帰宅時にデボラさんが仕事部屋におられたことはあれど、二人で過ごしているときに彼女が顔を出してくることは一度もなかった。まさかそれが、邪魔をしないようにと気を遣ってくれていてのことだったなんて……ありがたいけど恥ずかしい。
「ええと、お気遣い、ありがとうございます」
顔が熱くなるのを感じながらお礼を言うと、デボラさんは大人の余裕が感じられる微笑みを浮かべて「どういたしまして」と言った。
居間に辿り着き、デボラさんと一緒に中に入る。
室内は暖炉に火が入っていてとても暖かい。修道院では先生に魔道士が多いということもあり、魔法や魔道具で暖められた部屋で過ごすことが多いのだけれど、暖炉のように自然の火が生み出す暖かさは格別に思える。薪のはじける音と火の揺らめき、体感に聴覚と視覚が相まってそう感じさせてくれるのだろうか。
「ほらほらフラウリア様。暖まってくださいな」
暖炉の前でデボラさんが手招きをする。
私はソファの背に脱いだ外套をかけて、暖炉に近づく。それから手を暖炉に掲げると、外気で冷たくなった手が暖まるのを感じた。
「そうそうフラウリア様は、このお家にどうして入口が二つあるかご存じですか?」
膝を屈めて、火かき棒で暖炉の薪を突きながらデボラさんは言った。
「いえ」
以前の家主さんがお店でもされていたのかな、とは思ったことはあるけれど。
「なんでもこのお家を建てた人が高名な作家さんだったそうで、あのお部屋は仕事しながら編集者や取材など、来客を出迎えやすいように作られたんだそうです」
「そうなんですか。なんだか今と似ていますね。あ、それをご存じでベリト様もあのお部屋を仕事部屋にされたのでしょうか」
「いいえ。内見の時点では地下の書斎を仕事場にされる予定だったそうです」
地下に書斎なんてあっただろうかと不思議に思っていると、デボラさんが笑みを零した。
「でもそれにルナ様が『死霊術士じゃないんだから』と猛反対しまして、ベリト様にこのお家を引き渡す前に改装して、書斎を綺麗さっぱり片付けて物置にしちゃったんです。それで仕方なくベリト様は、仕事に必要な家具が残っていたあのお部屋を仕事場にされたそうですよ」
「そうだったんですか」
されることが豪快で、流石ルナ様だと思ってしまう。
「そのことに当時ベリト様はかなりご不満だったようですが、今にしてみればこれでよかったのではないかと私は思います。地下にいたら今以上に、人に会わなくなっていたでしょうから」
「もしかして、ルナ様はそれを考えて」
「もしくはただ単に陰気な印象がある死霊術士が嫌いなだけだったのかも。ほら、ルナ様って陽気を絵に描いたような人ですから」
それに私が笑うと、デボラさんは膝を伸ばして火かき棒を置いた。
「さて。私はお夕食の準備をしてまいりますので、少しお待ちくださいね」
「はい」
平日の夕食はお手伝いをさせてもらえないので、ここは大人しく従う。
一人になった私は、自室に外套を持っていくか迷ってそのままソファに座った。そしてなんとなしに暖炉に目を向ける。ゆらゆらと火が揺らめく中、薪のはじける音が耳に届く。
その音を聞きながら、静かだな、と思った。
お仕事があった日はいつも、食事の準備ができるまでの間はここでベリト様と過ごしている。
その日あったことを彼女はいつも、優しい顔で聞いてくれる。
だけど今日、ベリト様はいない。
彼女がお仕事だった場合は帰られたあとにお話ができるけれど、今日はそれもできない。
日課のように行なっていたことができなくなるとなんだか、空虚な気持ちになる。
……今ごろ、ベリト様はなにをしているのだろうか。
流石にもう竜王国には着いていると思うけれど……そういえばどこに泊まられるとか聞いてなかったな。街に泊まるんだろうか。それとも星竜教会に泊まるんだろうか。どちらにせよ、もうお部屋でゆっくりされているころかもしれない。もしくは夕食中とか。今日はユイ先生と一緒に食事をされているのかな――……。
そんなことを思いながら暖炉の火の揺らめきを眺めていると、少ししてデボラさんが夕食の準備ができたと呼びにきてくれた。
当り前だけれど、食卓には一人分の料理だけが並んでいた。
私はいつもの席に座って食前のお祈りをすると、ナイフとフォークを手に取った。
今日の献立はお魚と貝のトマト煮込みと、パンとサラダだ。
いい香りと、とても美味しそうな見た目に、先ほど落ちていた気分が少しあがる。
私は魚と貝と迷って、魚に手を伸ばした。ほろほろになるまでよく煮込まれた魚の身を一口分フォークで取り、食べる。それが頬が上がるぐらいに美味しくて、自然と向かいに目を向けた。だけど誰もいないその席を見て、またすっと気分が落ち込んでしまう。
今日は『美味しいですね』と言っても『そうか』と返してくれる人がいない。
料理に夢中になる私を、優しい眼差しで見守ってくれる人がいない。
彼女がいないことをまた実感させられて、思わずため息が出た。
話し相手もいないので、静かに食事を進める。すると食堂の隅でなにかしていたデボラさんが、近づいてきた。
「あら」覗き込むように私の顔を見る。「今日の料理はお口に合いませんでしたか?」
「え」意外な言葉に私は驚く。
「いつもはにこにこと食べていらっしゃるのに、今日はそうではないようですから」
それにはっとして、いけない、と思った。
こんな美味しい料理なのに、浮かない顔で食べていたらデボラさんに失礼だ。
「いえ。凄く美味しいです」
私は精一杯に微笑んだ。
するとそんな私を同じく微笑んだデボラさんがじっと見てくる。
まるで睨めっこをするように、じーと見つめてくる。
それに妙な迫力を感じて、私は押し巻けるように微笑みを崩してしまった。
気まずさを感じている私に、デボラさんが優しく苦笑する。
「フラウリア様。味覚というものは人間関係と同じく、人によっては合う合わない、好き嫌いがあります。そういうことは遠慮なさらず仰ってくださったほうが私は嬉しいです」
「違うんです」誤解されていることに焦り、私は慌てて言った。「料理が美味しいというのは嘘ではないんです。ただその……一人での夕食が、慣れなくて」
デボラさんが不思議そうに眉をあげる。きっと『今日に限ってどうして?』と思っているに違いない。ベリト様がお仕事のときの夕食はいつも一人で食べているのにと。
そう思われるのは当り前だ。私が彼女でも同じことを思う。だけど今日はいつもと同じようで一つだけ、違うことがある。
ベリト様が帰ってこないことだ。
慣れないのは、ベリト様が帰ってこない日の夕食が初めてだからだ。
でも、それを口にするのは恥ずかしくて、私は口をつぐんでしまう。
すると考える素振りを見せていたデボラさんがうなずいた。
「そういうことでしたら」そして横の椅子をこちらに向けて座る。「僭越ながら私がお話相手になりましょう」
「え……いいんですか?」
「もちろん」
にっこりと笑ってくれたデボラさんに安堵して、私は今日お仕事であったことを話し始めた。そしてそれが終わると今度は今日の料理のことを話したり、デボラさんのお話も聞いたりした。そんな聞き上手で話し上手な彼女のお陰で、食事前から感じていた空虚な気持ちを忘れることができた。
そうして食事が終わりお風呂と寝支度を済ましたあと、デボラさんが居間でお茶をしないかと誘ってくれた。
「大丈夫ですか? 就寝前はお静かに過ごされたかったのでは」
紅茶を注ぎ終わり、デボラさんが隣に座りながら言った。
「いえ」私はカップを手にする。アップルティーのいい香りが鼻腔に届く。「やはり一人なのは落ち着かなくて。だから誘ってくださって嬉しいです」
「ベリト様が遠出されることなんて、これまでなかったですからねえ」
「私が住まわせていただく前もですか?」
「えぇ。遠出されるどころか、今以上に引きこもっておられましたよ。お出かけされるのは本当、解剖のお仕事と本を買いに行かれるときぐらいで。あぁ、あとはたまにそれを見かねたルナ様によって、強引にお食事に連れ出されることもありますね」
その光景が目に浮かんで、頬が緩む。
「そんなルナ様も、ベリト様に気を遣って海外のお仕事は振らないようにしていたのでしょう」
「それならどうして今回は」
「想像ですが、いい時期だと思われたのではないでしょうか」
「いい、時期」
「最近はベリト様も碧梟の眼の本部に出向かれたり、フラウリア様とお茶に行かれたりと、少しずつ外に出られるようになりましたから。ここはいっちょこの機会に外国に出してしまえと」
ふふっとデボラさんは笑うと、珈琲を一口飲んだ。彼女は砂糖なしの珈琲を好んで飲むらしい。あんな苦いものを美味しく飲めるなんて、デボラさんもベリト様も大人だ。
「本当、強引ですよねルナ様は。でも、その強引さで救われている人間は沢山いるんです」
そう言ってデボラさんが目を伏せる。まるで、なにかを懐かしむかのように。
「デボラさん、も?」
その様子に思わずそう訊いてしまうと、デボラさんはこちらを向いて微笑んだ。
「そうですね。私もルナ様に出会わなければ、このようなまともな生きかたはできなかったでしょう」
まともな――そういえば私、デボラさんが軍人さんだったこと以外はなにも知らない。彼女はおしゃべり上手だけれど、自分のことはあまり話さないから。
「あらあら、私の過去に興味が湧いちゃいました?」
「ええと」
その通りなのだけれど、肯定していいものか迷ってしまう。
だってまともな生きかた、という言いかたをするってことは、それ以前はそうではなかったということだろうから。それってあまり、触れられたくないことなのではないだろうか。
「お話しするのは全然、構わないのですが、ただフラウリア様にはちょーと刺激的かもしれませんねえ」
「刺激的」首を傾げると、デボラさんが笑った。
「そうですねえ……いつか――フラウリア様が大人になりましたときにでも、お話しさせていただきましょうかね」
大人というのはもちろん、精神的なことを指しているのだろう。
それに『楽しみにしておきます』という返しは不適切な気がしたので、私は迷って大人になるのを「頑張ります」と答えた。
それにデボラさんは笑うと別の話題を振ってきた。
そうして彼女といろんなお喋りをして、二十二時前に解散となった。
自室で歯みがきをしてから、どうするか迷ってベリト様の部屋に行く。
一人なのだからどこで寝ても同じなのだけれど、なんだかんだでこれまで一度も自室では寝ていないので、寝床といったらどうしてもベリト様のベッドを思い浮かべてしまう。
私はベリト様の部屋に入り、魔灯を点けた。暖炉がない部屋の中は暖まっている。デボラさんが魔道具で暖めておいてくれたからだ。それはいつものことなのだけれど、今日ベリト様がいないのにこの部屋を暖めておいてくれたのはきっと、私がここで寝ると読まれていたからだろう。
それに少し羞恥を覚えながらベッドにあがる。そして魔灯を消してシーツにもぐりこんだ。
目を瞑ると視覚が遮断されたことにより、意識が周囲へと向く。
一階には小さく気配が視える。デボラさんだ。普段は気配を消している彼女も、泊まってくれるときはそれをしていない。
以前にその理由を聞いたところ、防犯のためだと言っていた。
腕のいい盗賊は気配も視るから、夜間に気配が一つなのと二つなのとでは大分、狙われる確率が下がるからと。
そしてもし侵入されてもすぐに飛び起きて引っ捕らえるのでご心配なく、とも言っていた。
そんな頼もしいデボラさんがいるので、ベリト様が碧梟の眼の本部に行かれているときも安心して寝られている――……そう、寝られていたのに、今日はどうしてか私の胸には不安が浮かんでいる。
朝になっても彼女が帰ってこないということが。
遠い国に彼女が行ってしまっているということが。
それがなんだか心細く、寂しかった。




