大陸暦1977年――10 フラウリアの休日5
お買い物から帰って食材などをおさめたあと、デボラさんが髪を結ってくれると言った。
「今日はどんな髪型にしましょうかね」
デボラさんはいつもこうして空いた時間に私の髪を結ってくれる。遠慮しても『私がしたいのです』と言ってくれるのでそれに甘えている。
「フラウリア様の髪は真っ直ぐで綺麗ですから、ついそれを生かして上を編んだりするぐらいにしちゃうのですが、たまには二つ結びもいいかもですねえ」
髪を結ってくれるデボラさんはとても楽しそうだ。髪を弄るのが好きなのかと思ったけれど、デボラさん自身は料理をされるとき以外はいつも軽く一つ結びをして前にたらしている。以前に『デボラさんは髪を結ったりしないんですか?』と訊いてみたら『私は人にやってあげるのが好きなんです』と言っていた。そのとき彼女はいつも通り笑っていたけれど、目はどこか寂しそうに見えた。私はその目をどこかで見た気がしたけれど思い出せなかった。
髪を結い終わるとゆっくりしていてくださいと言われたので私は素直に自室に戻った。こういうときなにか手伝いますと言ったとしてもデボラさんは絶対にさせてくれない。休暇なのだから休んでいてくださいと返されてしまう。そう言う彼女はほとんど休まれないのにとも思ってしまうけれど、ベリト様が『あいつは動いてないほうが落ち着かないんだと』と言っていたので納得するようにしている。
そうして自室で一人、本を読んでいるとベリト様が仮眠から起きられた。それを待ちかねたように私は居間に下りた彼女のもとへと行く。それから軽く挨拶を交して寝起きの珈琲を飲んでいる彼女の隣に座った。
「髪」持っているカップを見ながらベリト様がぽつりと言った。「珍しいな」
言われて私は軽く二つに結って肩から前にたらしている髪に触れた。その髪先は少しくるくると巻かれている。
「たまにはとデボラさんが」
「そうか……似合ってる」
こちらを見ずにベリト様は言った。ぶっきらぼうな物言いをするときと同じく、こういうときも彼女は気恥ずかしさを感じている。でも、それでもこうして思いを伝えてくれるのはとても嬉しい。
「ありがとうございます」
思わず頬があがっている私をベリト様は横目で見てからまた前を向いた。
「デボラさんとお買い物に行ったらカイさんに会いました」
「あぁ」
カイさんは私が仕事中にデボラさんに剣を習いに来られるので、ベリト様は私よりも彼と顔を合わせている。しかもそれだけでなくときどき文字の読み書きも見てあげているらしい。それはルナ様の提案で始まったことらしいのだけれど、それでもそれをデボラさんに聞いたときは嬉しくてたまらなかった。
「ナナさんが風邪を引かれたそうです」
「季節の変わり目は多いからな」
「大丈夫でしょうか」
「あいつも馬鹿じゃない。本当に危なそうならお前か私を頼る」
「そうですよね」
以前にベリト様はカイさんに『本当に治療士が必要だと感じたのならば私のところへ来い』と言っていた。そしてカイさんはこれまで一度だけ、ベリト様を頼ったことがある。そのときベリト様はカイさんが抱えて連れて来た大やけどを負った幼い子を治療してあげたのだという。その子はカイさんの近所の子で、お母さんが目を離したすきに湧かしていた熱湯を被ってしまったのだとか。それを仕事から帰宅したあとデボラさんに聞いた私は、夕食からずっとにこにこしっぱなしだった。カイさんがベリト様を信頼できる大人として頼ってくれたことが、そしてベリト様がカイさんの人を助けたいという気持ちに応えてくれたのが嬉しくて。
そんなカイさんのことだからベリト様の言う通り、妹さんの具合が本当に悪いのならばきっと私たちを頼ってくれるだろう。
続けてお買い物のときの話をしていると、視界の下に不自然に動く手が見えた。
ベリト様の手だ。ソファに置かれた彼女の手が少しあがっては元の位置に戻る。それが私の手に触れようとして出来ないのだということはわかっている。
ここに住み始めてからベリト様から私に触れてくれたのは初めての夜だけだ。
あの日、抱きしめてくれた以来、彼女は私に触れたことがない。
それは子供のころからの躾がまだ彼女の気持ちを戒めてしまっているのかなと思ったけれど、最近はそうではないのではないかと思い始めた。
先月、ベリト様と一緒に寝たとき、彼女は昔のことを話してくれた。
故郷が隣国の白狼国であること。
生家が貴族であること。
先祖返りの黒髪と両親どちらにも似ない金の瞳、加えてその異能により家族や誰からも疎まれ幽閉され、そのあとお父さんに星都に捨てられたこと。
それから壁近の子供たちに助けられて闇治療士の家に引き取られたこと。
そこで治療士をしながら病気や大怪我でもう助からない人を力で安楽死させてきたこと、そして自分の害になる人たちを、殺してきたことを――。
それを聞いたとき、私は様々な感情を抱いた。
家族に愛されることなく捨てられた彼女が可哀想で、拾ってくれたのがいい人で安堵して、彼女の手がそんなに人の命を奪っていたことに驚いて。
そしてそれらのことを知って、思った。
ベリト様が未だに私に自分から触れてくれないのは、触れられないのは、ご両親にいけないことだと躾けられた以外にもそのことがあるのではないかと。
あの人――ショーンさんのように自分の手が汚れていると思っているのではないかと。
それでも彼女は私にそんな自分を受け入れてもらいたくて、勇気を出して全てを話してくれたのだと思う。
だから私はベリト様が全てを話し終わったあと、彼女の手を握った。
正直なところ彼女が話してくれたことは私が想像していた以上のことだらけで、そのときすぐに全てを受け入れることはできなかった。だけどそこに負の感情などは微塵も浮かんでこなかった。
だって私にはわかるから。
彼女がその手で人を殺めてきたのは、自分のためだけじゃないことを。
自分を守るためだけではなく、誰かを守るためにそういうことをしてきたのだと。
助からない人を安楽死させてあげてたのだって、したくてしていたわけじゃない。
その人のことを考えて、彼女は自らそれを選んだのだ。
苦しみを終わらせるために――助けてあげるために。
そう、私の記憶を引き受けてくれたときのように。
自分の気持ちよりも人のことを考えてあげられる人を。
人のために行動ができる人を、私は怖いとは思わない。
思えるわけがない。
これまで彼女の手が多くの人を殺めていたとしても、汚れているとは思わない。
私を救ってくれたその手が優しく温かいことを、私は知っているから――。
私はベリト様に話しながら自分の手を彼女の手に重ねた。手のひらの下にある手が小さく跳ねる。
私が全てを受け入れられた今でも、ベリト様はまだ私に触れられていない。
おそらくは私が受け入れたことを受け入れるのに時間がかかっているのだろう。
だから彼女が触れようとしているのに気づいたとき、こうして私から触れるようにしている。
今まで以上に遠慮せず、彼女に触れたいときは触れるようにしている。
なにも気にする必要はないのだと、伝えるために。
ベリト様はこちらに向けていた目を少し泳がせると前を向いた。それから手を握り返してくれる。
会話が途切れてどれくらいかその手の温かさに気持ちを委ねていると、静かな居間にこんこんと音がした。扉を叩く音ではない。もっと硬質で小さな音だ。
ベリト様が窓際を見たので私もそちらに向く。窓の外にはなにかが飛んでいる。
小さな鳥だ。小鳥が窓の側を飛び回っている。胴体が白色で羽が青色の丸っこい尾が長い小鳥が――。
ベリト様はため息をついてソファから立ち上がると窓を開けた。すると小鳥がベリト様の肩へと止まったので窓を閉めてそのまま戻ってくる。
「この子、ルナ様の小鳥ですよね」
「知ってるんだな」
「はい。以前に一度だけ見かけたことがあります」
ベリト様は人差し指に小鳥を乗せるとその背に手を伸ばした。よく見たら小鳥はなにかを身に付けていて、背には小さな筒の入れものを背負っている。その筒からベリト様は巻かれた紙、だろうか、それを取ると小鳥を再び肩の上に戻した。小鳥は彼女の肩の上で小さく跳ねながらちゅんちゅんと鳴いている。その光景がなんとも微笑ましくて頬が緩んだ。
ベリト様が小鳥から取った紙を広げる。横に長い親指ぐらいの小さな紙だ。
お手紙なら見てはいけないだろうと顔を逸らそうとしたらすかさず「見られて困るものではない」とベリト様が言った。
お言葉に甘えて紙を覗き見る。そこには小さく幾何学な図形が書かれていた。
「これ、なんですか?」
「図形文字だ」
「図形文字?」
「軍が伝達に使う暗号の一種だ」
「それで……」どうりで意味がわからないわけだ。「ベリト様は読めるのですか」
「デボラを使って覚えさせられた」
「それって大丈夫、なんですか」
軍のことはよくわからないけれど機密になるのでは……それともベリト様はルナ様の治療士だから一応は軍関係者になるのだろうか。
「普通ならば外部の人間に洩らした時点で処罰ものだが、これはセルナがお遊びで作ったものだ。あいつの知人はみんな知っている」
「そうなんですか」
ベリト様は紙に視線を走らせると、ため息をついた。
「たくっ勝手な奴だ」
そしてそう言ってからこちらを見る。
「セルナが夕食を食べにくるだと。ユイも連れてくるだろう。デボラにそう伝えてくれるか」




