大陸暦1977年――08 夜話
「ベリト様はなんとも、思われていないのですか」
風呂上がりにソファで爪の手入れをしていると、隣でそれを見ていたフラウリアがそう訊いてきた。
「なにが」
爪をヤスリで研ぎながら問い返す。爪を短く維持するのは壁近にいたときから週に二回、欠かさずやっていることだ。それは見た目を気にしてのことではない。解剖のときに邪魔だからだ。長いと爪の間に色々と挟まって余計に洗浄が手間になってしまう。とはいえ最近は星教の死検士が使う手袋を着用して解剖を行なうのでもう気にする必要はないのだが、それでもつい手入れをしてしまっているあたり、染みついた習慣というものは必要がなくなったからといってもそう簡単に抜けるものではないらしい。
「私がその、被写体をしていたことを」
今更ですが、とフラウリアが付け加える。今更と言ったのは今日でショーンの刑が執行されて一週間が経っているからだ。それが今になって気になったのは、あいつとの唐突な再会から別れへの過程で生まれていた感情が大分消化できて、そこに意識を向ける余裕が出てきたからだろう。
「被写体の仕事をしている人間なんて普通にいるだろ」
「でも、そういうのは普通、娼婦さん、とかがされるんですよね。あ、もちろんその、そういうお仕事のかたを否定するわけではないのですが」
……あぁ、なるほど。こいつが被写体をしてきたことを『後悔はしていなくとも生きるためにしてきた良くないこと』と思っているのは、被写体の仕事を引き受ける娼婦の本来の仕事が体を売ることだから、それで被写体が体を売ったことと同義のように考えているからか。
「お前は好き好んでではなく、恩を返すためにそれを引き受けたんだろ」
「それは、はい。そうですが……」
そして恩を返す以上に続けていたのは、その対価で孤児を助けるためだ。自分のためではなく他人のために『良くないこと』を続けていたのだ。
その自分よりも他人を優先する考えかたは正直、好きにはなれないが、それでもそれがフラウリアなのだということは認めている。だからそれを否定するつもりはないし、否定的な感情も浮かんではこない。
「なら」手入れの手を止めて、フラウリアを見る。「お前はなにも気にすることはないし、私もなんとも思ってはいない」
私の言葉を受けて、心配げにしていたフラウリアの顔が少しは和らぐ。
「それ以前に最初から気にすることでもないだろ。体を見られたからといってなにかが失われるわけでもあるまいし」
爪の手入れに戻りつつもう一押しのつもりでそう言うと「失われる、わけでもない」とフラウリアがゆっくりと反服してきた。
その声音が妙な感じだったので私は横目をフラウリアに向ける。するとなぜかフラウリアは複雑そうな顔を浮かべていた。
「……ベリト様は、人に、体を見られても恥ずかしいとは思われないのですか」
「思わんが」
即答すると、フラウリアは意表を突かれたような顔をした。どうやら予想外の回答だったらしい。それから目を瞬かせながら私の顔をじっと見てくる。
「なんだ? 脱いで証明しろとでもいうのか?」
「え。え……!? ちが、違います……! そういう意味では……!」
「冗談だ」
フラウリアは口をぱくぱくさせると、耳を赤くして縮こまった。
「まぁ、なにも思わないのは本当だがな」
爪の手入れを仕上げて、ヤスリを革ケースに収める。そしてそれを脇に置いてからフラウリアを見た。
「それは随分と、お体に自信があるのですね」
からかわれたことに拗ねたのか、表情も口調も少し反抗的だった。
そんなフラウリアに思わず笑いが漏れる。
「違う。そういう意味じゃない」
「それならどういう意味ですか」
フラウリアが眉を寄せて半眼で見てくる。こういうこいつは珍しいのでつい口許が緩んでしまう。
「観点の違いとでも言えばいいか。私もここに来るまでは闇治療士の助手をしていたし、今でも解剖をしていることもあって裸体を見る機会は多くてな。それでそういうときは常に医学的観点で見ているから、治療や解剖以外でも自分他人関係なく人体をそういう風にしか見れないんだ。ようは職業病というやつだな」
「職業病?」
「職業上で身についた癖や習慣のことだ」
とは言っても流石にそれだけが原因ではない。治療士の助手も解剖もここに捨てられてから始めたことだ。それまで裸体に羞恥を感じていた人間が、それを境に急に考えを覆すわけがない。私の場合は元々がそうだったのだ。
私のような一応は生まれが特権階級の人間は、幼いころから侍女などの手を借りて着替えやら風呂などを行なう。家族以外の人間に肌を晒すことに多少は慣れている。私は幽閉されてからはそれらのことを一人で行なってはいたが、それでも幼いころに植え付けられた常識というものは残っている。だから今でも人前で着替えることになんの抵抗もないし、目の前で着替えられてもなんとも思わない。だとしても、それが一般的な常識ではないことはわかってはいるのでやらないが。
「そういうことでしたか」
フラウリアは少し恥じるように、それでも納得するように小さくうなずくと「私も治療士の端くれなのですから、裸を恥ずかしいものと考えてはいけませんね」と自分に言い聞かせるように言った。
「いや、見られる分には別にいいと思うが……」
体を見せることを恥ずかしがらないこいつは、それはそれでなんか違う気がする。
「やはり」フラウリアがくるっとこちらに顔を向けてきた。「治療士として常日頃からも人をそういう視点で観察したほうが学べることがあるのでしょうか?」
「ま、まぁ」前のめりに訊かれて、思わず気圧されてしまう。「なくもないが」
「ベリト様も常日頃からそうされているのですか?」
「いや、私は、珍しい特徴を持った人間がいたら見てしまうぐらいだが」
「珍しい特徴、ですか」
「あぁ。とは言っても外では肌を露出している部分など限られているからな。目に付くとしても手とか耳とかぐらいだが」
「手と耳」
フラウリアが自分の手を前に出して見る。続いて見比べるように私の手も見てきたので、私は見やすいように手をフラウリアに向けた。
「手に関しては私とお前は目立った特徴はない。お互いに爪の形も骨格も標準で、違いがあるとしても手の大きさと指の長さぐらいだ。だが耳に関してはお前は珍しい特徴がある」
フラウリアは耳に掛かった髪を掻き上げると、確かめるように自分の耳に触れた。
「よく見られる形の私の耳に対して、お前の耳は上から耳たぶにかけて全体的に丸みを帯びている。これは私が見てきた中では珍しい部類に入るものだ。舟状窩あたりの面積が広いのがその要因だな」
「舟状窩?」
「そうか。知らないか。この外側のみぞ辺り――」
手を伸ばしかけて、ふいに言葉が脳裏に浮かんだ。
『白い花に触れるには、私の手は汚れすぎている』
途端、耳に触れる寸前で、手が止まる。動かそうにも手が金縛りにあったかのように動かない。指一本ですらも動いてくれない。そんな不自然に動きを止めた私をフラウリアが不思議そうに見る――見てから私の手をやんわりと掴んできた。そして自身の耳に誘導する。以前にこいつが風邪を引いたとき、額に触れようとして触れられなかったときのように。
「どのあたりですか?」
そして何事もないようにそう言ってきた。
「この、あたりだ」
私はなるべく動揺を抑えながら、フラウリアの誘導によりすでに耳に触れている指を動かす。指は先ほど動かなかったのが嘘のように難なく動いたので、人差し指で耳の裏を支え親指でそこを示すようになぞる。するとフラウリアの肩が小さく跳ねた。
「悪い、痛かったか」
それに驚いて思わず手を引くと、フラウリアが小さく苦笑した。
「いえ、くすぐったかっただけです」
「あぁ、耳には神経が多く通っているからな」
「神経」フラウリアが自分の耳に触る。
「神経が集中している場所は人によっては敏感で感じやすいんだ」
そう言うと、元の色に戻っていた耳がまた赤くなった。それから視線が落ち着きなく動く。
「そ、うなんですか」
この反応は……あれだ。ケンにもらった恋愛小説の内容を私に知られたときと同じものだ。状況からするに、どうやら自分の敏感なところを知ってしまい恥ずかしがっているらしい。別にそういうつもりで言ったわけではないのだが、確かに受け取りようによっては性的なことに聞こえなくもない。まぁ、そういう場所は性感帯とも言うしな。その言葉をこいつが知っているかどうかは知らないが。
私はなんとなく観察するように恥ずかしがっているフラウリアを見る――見ながらもう一度、触れたいという気持ちが湧いてきた。だが、そうは思っても実行はできない。こういうとき自分から触れられないのは、もどかしい。
それは今日だけではない。これまで一緒に生活をしていてもこいつに触れたいと思ったことは何度もあった。そうしようともした。
だが、駄目だった。
どうしても、無理だった。
これまでそう思って触れられたのはセルナたちと酒を飲んだとき、こいつが寝ていたときだけだ。
あのときは私も酒が入っていたので、少しばかり大胆になれたのかもしれない。
それでも触れられたのは本当に少し、頬に少し触れたぐらいだ。
そして酒でも入らなければ、そんなことすらもできない。
『白い花に触れるには、私の手は汚れすぎている』
また脳裏にあの男の言葉がよぎる。
あの男は――ショーンはフラウリアの白さに惹かれていた。
惹かれながらも、こいつに手を出すどころか指一本触れることはなかった。
それは首領の子として生まれた自分の血が、罪を重ねてきた自分の手が、汚れていると思っていたからだろう。
そんな手であいつに触れたら、その白さを汚してしまうと恐れていたからだろう。
それは私も、同じだ。
私も、怖い。
触れることで、フラウリアを汚してしまうのではないかと。
この白さを自分の手で汚してしまうのではないかと、怖い。
たとえこいつの心の白さが、他者からの干渉で揺らぐものではないとわかっていても、恐れを感じてしまう。
それでも、そう思ってはいても触れたいという気持ちが自分の中にはある。
心だけでなく、こいつの全てに触れたいという欲求が、自分の中には存在している。
……人は、正反対の性質に惹かれる。
その惹かれた相手に感じる感情は様々で、フラウリアを浚った奴らのように無理矢理にでも相手を自分色に染めたいと思うこともあれば、ショーンのように相手に魅せられて侵しがたいもののように感じる場合もある。
私の能力は自分を視ることはできない。
自分の根源色が、わからない。
だがおそらく、私も黒に近いのだろうとは思う。
だからこそこんなにも……惹かれるのだ。
初めて心を視たときから、心に触れたときから、惹かれてたまらないのだ――。
「ええと、治療学では耳のことはあまり習いませんでしたね」
ぎこちないフラウリアの声に、内に籠もっていた思考が呼び戻された。
「あ、あぁ、耳、外の部分である外耳は普段から目にする箇所ではあるからな。だから詳しく学ばなくとも魔法使用時に自然と想像がしやすいだろうと思って、教本には詳細に記さなかった。まぁ、外耳は怪我をしても命に関わる場所ではないし、人体にはほかにも学ばなければならない箇所が沢山あるから省いたんだ」
それまでどことなく恥ずかしげにしていたフラウリアが目を丸くした。私が内で考えていたことを誤魔化すためについ、早口になってしまったからだろう。
そのままフラウリアはなにも言わずに私を見てくる。
私もなんとなしに見つめ返してしまう。
そうしてしばらく見つめ合ったあと、どちらからともなくお互いに顔を逸らした。
「そう、なんですか」
「あぁ」
それからお互いに顔を背けたまま、なぜか気まずい空気が流れる。
この話題ではもう私から言えることはなかったので、私はフラウリアからなにかを言ってくるのを待った。この空気を破ってくれるのを待つ。が、一向にあちらからなにかを言ってくる気配がない。
困ったな……と視線を動かしていたら、膝の上の自分の手が目に入った。
「……お前は」
その手を見ているうちに、私は自然と口を開いていた。
フラウリアの意識がこちらに向く気配がする。
「早いうちからあの男が、犯罪組織の人間というのはわかっていたのだろう」
「――はい」
「それでなんとも、思わなかったのか。怖いとか、汚らわしいとか、なんとも」
ひと時の間のあと、フラウリアは言った。
「こういうことを言うとベリト様、よく思われないかもしれませんけど、今思えばショーンさん、少しだけベリト様に似てるところがありました」
「私に……?」
「はい。私、一度だけ彼に触れようとしたことがあるんです。彼が紙で手を切って、それで手当てをしようとして。でも、そのときショーンさん、凄い勢いで私の手を避けました。まるでそれが、いけないことだとでもいうように。おそらくですけど、彼は自分の手が、罪を重ねてきた自分が汚れていると思っていたのだと思います」
汚れている――その言葉に思わず膝の上の手を強く握ってしまう。するとその手にフラウリアが自分の手を乗せてきた。驚いて顔を横に向けると、フラウリアは微笑んでこちらを見ていた。
「でも、私は一度もそんなことを思ったことはありませんでした。だって彼は私にとても親切だったから。私にはとても優しい人だったから。そんな人のことを犯罪組織の首領だからという理由で、その手で多くの罪を重ねてきたからといって、怖いとか、汚れているとか思えません。思えるわけがありません」
それは、私に向けても言っているようだった。
……いや、きっとそうなのだろう。
私が、あの男と似たようなことを思っていると気づいて。
……全く、力がない癖に、こいつには内を見透かされているような気がする。
心を視られているような気がしてくる。
それでも悪い気がしないのは、こいつだからなのだろう。
「……今日、セルナは夜休みなんだ」
「そうなのですか。それでしたら一緒に寝られますね」
嬉しそうにフラウリアが言う。触れられた手からも嬉しさが伝わってくる。
……フラウリアの言う通り、確かにあの男は私に似ている。
こいつに感じる感情も、おそらくその根源色も、よく似ている。
だからこそわかる。あの男が自分のことをフラウリアに話さなかった気持ちが。
それは、拒絶されるのが怖かったからだ。
全てを話して、こいつが離れて行くのが怖かったからだ。
そして私もそうだからこそ、未だに昔のことをフラウリアには話せてはいない。
ここに来るまでに自分が行なってきた全てのことを、話せずにいる。
……別に、今のままの関係を維持するのならばこのままでもいいのだろうとは思う。無理にそれを話す必要はないのだろうと。私は力でこいつの全てを視てしまったが、普通の人間関係ではそこまで人の内を知ることはない。全てを話さずとも共にいる人間はいくらでもいる。
それに私は今のままでも十分……そう、十分に満ち足りている。
たとえ私が触れられなくとも、こいつは私に触れてくれる。
こいつがこうしてそばにいるだけで、それだけで幸せだと、思えている。
だからなんの問題もない。
このままでも、なんの問題も――……。
……でも。
それでも。
私はこいつに、触れたい。
待つだけではなく、こちらからも触れたい。
与えられるばかりではなく、こちらから与えられるようにもなりたい。
そのためにはやはり、全てを話さなければいけないのだと思う。
全てを話して、全てを受け入れてもらわないと。
そうすることでやっと私は、こいつに触れてもいい権利を与えられるような気がする。
心から、こいつと一緒にいてもいいのだと思えるような気がする。
……そろそろいい加減、腹を決めるべきだろう。
こいつのことを特別だと思っているのならば、今後も共にありたいと望むのなら――。
「今日はなんのお話をしましょうか」
最近、一緒に寝るときはいつもなにかしらの話をしている。それはただの雑談の場合もあれば、学問政治歴史など種類問わずなにかしらについて議論することもある。そしてその話題を持ち出すのはほとんどフラウリアのほうだ。
「……昔の、話を」
「昔ですか?」
「聞きたがっていただろう」
それでなにを指しているのか気づいたフラウリアは驚くように目を見開いた。
「聞いても楽しい、ものではないが」
恐れからつい予防線を張ってしまうと、フラウリアは微笑んで首を振った。
「それでも、私は聞きたいです」
そして私を安心させるように優しい声音でそう言う。
「……そうか」
私は自分の手に乗せられたフラウリアの手を握ると、ソファから立ち上がった。
そして手を支えに立ち上がったフラウリアと二人、ベッドへと向かった。




