大陸暦1977年――08 泥土と白い花6
セルナが帰ってから、私はフラウリアの自室に向かった。
それから扉の前で声をかけていいものかと迷っていると、少ししてこちらの気配に気づいたのかフラウリアのほうから外に出て来た。
フラウリアの目は、赤かった。あいつの死を悼んで泣いていたのだろう。顔には出さなくともやはり衝撃ではあったのだ。いや、もしかしたら出さないよう気をつけていたのかもしれない。あいつを捕えたセルナに気を遣って。
「御用、でしたか」
「いや……様子を見に来ただけだ」
そう言うとフラウリアは小さく、それでも嬉しそうに笑った。それから「どうぞ」と私を中に招き入れる。
部屋の中に入るのは、フラウリアがここに住み始めた日以来だ。ぱっと見た感じ、室内の様相はそのときとはほとんど変わってはいない。変化があるとすれば、机の上ぐらいだろう。机の端には写真立てが三つと、夜市の輪投げで取った小さな蛙の置物が三匹、飾られている。そして真ん中には、開かれた星書と星十字架が置かれていた。
「死者に送る祈りというものがあるのか」
窓際のソファに座りながら私は訊いた。
「はい」フラウリアも隣に座ってくる。「本当はお葬式――星還送が行なわれた祭壇ですべきものですが、ユイ先生が祈りに場所は関係ないと教えてくださったので」
「そうか」
そこで、早くも会話が途切れた。私たちの間に沈黙が流れる。
フラウリアと暮らし始めてもうすぐ半年になろうとしているが、これまでにもこういう時間はたまに訪れることがあった。それを最初こそは気まずく感じていたものの、今ではもう大分慣れてしまっている。それどころか、そのときに流れる空気感も嫌いではないと思えるようにまでなっている。こいつといるだけで不思議と心が穏やかでいられる。
けれどもそれは、フラウリアの心が健康であってこそだ。
こいつが悲しみに沈んでいると、流石にこちらも穏やかではいられない。この無言の時間もどことなく気まずさを感じてしまう。しかしこの状況を打開しようにも、悲しんでいる人間の慰めかたが私にはわからない。こういうときどうするのが正しいのか私は知らない。思いつくのは悲しみの原因を――記憶を奪うことぐらいだ。だが、それを安易にするべきではないことは当然わかっているし、やるつもりもない。
それならどうすればいいのだろうか。普通の人はこういうときどうしているのだろうか――そう一人、頭を悩ましていると、ソファの上に投げている手にフラウリアが触れてきた。
瞬間、触れた指先から悲しみの感情と共にショーンとの記憶が流れ込んでくる。人が死者を悼むときに視える光景だ。
私は横目を向ける。フラウリアは正面を向いて俯いたまま、私の手の甲に触れている。接触しているのは二本の指だけだ。その指が手の甲から小さく上がっては、また下ろされたりとを繰り返している。いつものように手を重ねてこないのは、悲しみの感情を私に視させてしまうのを悪いと思っているからだ。手を握りたいけど私に申し訳ない、という気持ちのせめぎ合いがその指の動きからも、触れる指先からも感じ取れる。……全く、こちらが遠慮しているときには強引にでも握ってくる癖に、変なときに遠慮をしてくる。
私は手を裏返すと、フラウリアの手を握った。すると、手から伝わる悲しみの感情の中に、温かなものが湧いて滲むように混じってくる。
……あぁ、そうか。こうすればよかったのか。
触れてやれば安心を覚え、悲しみが少しでも和らぐのか。
そういえばフラウリアがここに住み始めてから、私が初めて解剖に行って帰ってきたときもそうだった。あのとき、こいつは両親が死んだときのことを思いだしていたようで、寂しさや悲しさを感じていた。けれど私の手を握るとそれはすぐに和らいだ。私に触れることで心の穏やかさを取り戻していった。
しかし、たとえそれが最初からわかっていたとしても、私からはこうすることは出来なかっただろう。そして今度、同じ場面に遭遇しても出来る自身がない。……本当、情けない話だが。
少し遅れてフラウリアも手を握り返してきた。それまでの遠慮が嘘のようにしっかりと握ってくる。今はこいつの気持ちが落ち着くまでこうしているべきなのだろうと思い、黙ったままその状態で過ごす。
そうしていると、しばらくして手から伝わる感情が大分、落ち着きを取り戻してきた。流れてくる悲しみの感情も今は視られない。しかしそれでもまだ悲しみが完全に癒えたわけではない。一時的にそれが視えないぐらいに奥に引っ込んだだけだ。それはふとした瞬間に水の底に沈んだものが浮上してくるように、当人をまた悲しみの淵へと引き込んでしまう。失った人間の存在が大きければ大きいほど、悲しみは深く強く、その状態は長く続いてしまう。
ショーンはフラウリアにとって肉親以上の存在ではないが、それでも長いこと世話になった人間だ。当日である今日のように心身に影響を及ぼすほどではないにしても、数日は悲しみが完全に癒えることはないだろう。
やがてフラウリアの手を握る力がわずかに緩んだ。そろそろ大丈夫かと口を開きかけたそのとき、部屋の扉が叩かれた。気配がないということはデボラだ。
出迎えに立とうとしたフラウリアを手で制し、扉に向かう。
「戻ったか」
扉を開けながら私は言った。
「はい。今日はお店、開いておりましたよ」
デボラが布に包まれた正方形の板を差し出してきたので、それを受け取る。
「では、夕食の準備をして参ります」
そう言ってデボラは早々に去って行った。
扉を開けたとき一瞬、室内に目を向けたのでそれで状況を感じ取ったのだろう。
私はフラウリアのもとに戻ると、隣に座ってから手に持っているものを渡した。フラウリアは一度、私を見てから包まれた布を開く。そして息を飲んだ。
布から現われた白いキャンバスに描かれていたのは、ワンピースを着て一輪の花を持っているフラウリアだった。
黒一色で、ワンピースの白さも、花の白さも、そして髪の白さも見事に表現されている。
ショーンはあの事件が起こらなかったこいつを想像して描いたと言っていたようだが、とてもそうは思えない。実際に見ながら描いたのではないかと感じるぐらいに今のフラウリアと酷似している。いや、そっくりと言ってもいい。
それでもあえて違うところを探すとすれば、今より少し大人びているのと前髪ぐらいだ。こいつは前髪を切りそろえているが、絵のフラウリアは前髪が長く左右に流している。おそらく昔の髪型そのままを描いたのだろう。もしかしたら髪色も黒一色で描いた結果、白く見えているのかもしれない。色が抜ける前、フラウリアの髪色は薄い練色で白に近くはあったから。
「いい絵だな」
絵の中で微笑むフラウリアを見ながら、私は自然と気持ちを口にしていた。
「……はい。本当に」
フラウリアも絵を見ながら、泣きそうな顔でうなずく。
この絵があることで、ショーンとの記憶はフラウリアの中に強く残り続けることだろう。
それに関しては正直、思うところはある。嫉妬に似たようなものまでも感じてしまう。
だが、フラウリアがあそこで生き残れたのは間違いなくあの男のお陰だ。
こいつが今ここにいるのは様々な人間の思いによるものであり、そしてあいつもその一人なのは間違いない。
あいつが欠けていても、私はフラウリアに出会うことはなかった。
それならば少しぐらいは感謝をしてやっても――フラウリアの心に残り続けることを許してやってもいいかもしれない。
「罪人は中央監獄棟内の星教会で星還送が行なわれ、それには親族以外は参加できない。だが、許可さえ取れば参ることはできる」
絵を見ていたフラウリアがこちらを見る。
「今度の休み、花でも手向けにいくか」
そう言うと、フラウリアは目を見開いてから微笑んだ。
「――はい」




