大陸暦1977年――08 泥土と白い花1
衛兵によって尋問室の鉄扉が重い音を立てて開かれた。
イルセルナは衛兵に向けて軽く手をあげると、中へと足を踏み入れる。
窓もない殺風景な室内には一人の男がいた。整った顔立ちの男だ。椅子に座り、手枷がされた両手を机の上で組んでこちらを見ている。年齢は三十だと聞いているが、とてもそうは見えない。実年齢より若く見られるのはイルセルナも同じだが、男もそれに負けてはいない。多く見積もっても二十代前半がいいところだ。そしておそらく友人のベリトのように普段から日に当たらない生活をしているのだろう、その顔は雪のように白かった。
一見したら好青年風の男だが、そう至らしきれていない要因が一つだけある。
目だ。男の目はこちらを見ているのに、どこを見ているのかわからないと感じるぐらいに虚ろだった。
なんだか死んだ魚の目を思い出すわ――そう思いながらイルセルナは向かいの席に腰を下ろす。それからいつもの明るい調子で口を開いた。
「私をご指名って聞いたけれど?」
男は白い顔に上品な微笑みを浮かべる。
「えぇ。ですが本当に来てくださるとは思いませんでした――イルセルナ王妹殿下」
男が発した言葉は綺麗なものだった。この手の人間によく見られる粗野な音色は微塵も含まれていない。
「普段なら好みじゃない男の呼び出しは断ってるんだけれど、まぁ、貴方なら話ぐらいはしてあげてもいいかなって」
「光栄です」
イルセルナの冗談に男は小さく笑うと、軽く礼をした。言葉だけでなく仕草も上品だ。とても犯罪組織で生まれ育ったとは思えない。
そう。この男は先日、イルセルナの部隊、碧梟の眼が捕えた犯罪者だった。
名はショーン・カテル。壁区を根城に活動していた犯罪組織カテルの三代目だ。
先代である父親を他の犯罪組織との抗争で亡くしたショーンは、十代半ばという若さで父親の跡を継いだ。それからというものショーンは十数年かけて小さな犯罪組織であったカテルを、武器や違法薬物の密輸と取引などで壁区を代表する犯罪組織の一つまで成長させた。その成長の著しさからこれ以上、育っては手が出しずらくなると先日、検挙に踏み切ったのだった。
しかし首領であるショーンは捕えたものの、彼の右腕とされる一つ違いの弟シュテル、そして何人かの幹部と構成員には逃げられてしまった。しかも検挙の数日前にこちらに気づかせることもなく。そのことから事前にこちらの動きが漏れていた可能性があり、そのためショーンは組織を存続させるために半分以上の仲間と自らを囮に、弟と彼に忠実な幹部、そして有力な構成員を逃がしたとされている。断定していないのは下っ端たちがなにも知らないのと、ショーンがなにも喋らないからだ。彼は自分がカテルの首領であることを認めてはいるものの、仲間の行方や情報源などは頑なに口を閉じている。
そんな中、ショーンは一つだけ、要望を出していた。
それがイルセルナとの面会だった。
イルセルナがショーンと最初に会ったのは、もちろん検挙の時だ。
彼は根城の一室のソファで、あろうことか優雅にお茶を飲んでいた。外では構成員と部下が戦闘を繰り広げている中でだ。そのとき部屋に踏み込んできたイルセルナたちに対して、ショーンは小さく微笑み『こんな夜中にご苦労さまです』と言ってきた。それがあまりにも自然で嫌みのない口調だったものだから、イルセルナは虚をつかれて上手い返しができなかった。そしてショーンはほかの構成員とは違い、全く抵抗することなく投降した。その出来事はイルセルナに強い印象を残した。
それから二日後、その彼が自分に会いたがっていると中央監獄棟から連絡があった。
捕えた犯罪者――特に犯罪組織の首領が自分に面会を希望してくるのは、そう珍しいことではない。犯罪組織の首領が捕まった場合、その多くが死刑となるため情報と引き換えに刑の軽減を求めてくるのだ。
そういうときイルセルナは基本、無視を決め込んでいる。情報の信憑性以前に、我が身かわいさに情報や仲間を売ってくるような人間をイルセルナは嫌いだからだ。本当に欲しい情報があれば、人を選んだ上でこちらから取引を持ちかけるようにしている。
だが、ショーンは情報を売りたいわけでも罪の軽減を求めているわけでもないとのことだった。ただ自分に会って話がしたいのだという。その内容についてもイルセルナ本人にしか話せないと。
それを聞いたとき、イルセルナはショーンを捕えたときのことを思い出した。
犯罪者を捕えたとき、反抗する元気のある人間はイルセルナに対して汚い言葉を投げ掛けてくることが多い。まさに馬鹿の一つ覚えのように、自分が無能者だということを罵ってくる。
だがショーンは逃げ場のない、捕えられたらほぼ死刑が確定しているあの状況で、あのように言ってのけた。そんな男が自分にいったいなにを話すのか、イルセルナはとても興味があった。
その結果がこれだ。
犯罪者に呼び出されて応じたのは、これが初めてのことだった。
「それで、なんの御用かしら?」
「実は、殿下にお願いがありまして」
「お願いねぇ。それは難しい内容かしら」
「いえ、大して。犯罪が絡むものでもありません」
「それならもしそれを聞いてあげたら、こちらのお願いも聞いてくれる?」
「私で出来る範囲でしたら」
「情報源と弟さんの行方でどう?」
「申し訳ありません。それだけはお話できません」ショーンは目を伏せて言った。
「どうして?」
「弟を売る兄がどこにいましょうか」
「自分を売った弟の心配なんてしなくてもいいと思うけど」
イルセルナがそう言った途端、ショーンの眉がピクリと動いた。それはほんのわずかなものであったが、目の良いイルセルナは見逃さなかった。
一時の沈黙のあと、ショーンが伏せた目をゆっくりと上げる。虚ろな目がイルセルナを見据える。
「なんのことでしょうか」
「貴方はお飾りのボス、違わない?」
イルセルナの言葉に、ショーンは小さく笑った。まるで嘲笑うかのように。
「それをお見通しとは、恐れ入ります」
その言動で、イルセルナは確信を得た。
イルセルナは以前から多くの時間をかけて、部下に犯罪組織カテルについて調べ上げさせていた。その調査資料によると、実際に組織を動かしているのは首領のショーンではなく弟のシュテルであり、兄は弟によってお飾りのボスに祭り上げられている可能性が高い、とのことだった。
しかし滅多に人前に出ないショーンとは違い、色々な場に顔を出すことが多かったシュテルの人物像からするに、それはおかしいとイルセルナは思った。
確かに弟のシュテルは裏社会の人間を絵に描いたような人物ではあった。だが、シュテルはどちらかというと頭を使うよりは力で相手をねじ伏せるのを好むようなタイプの人間であり、そんな彼が荒事ではなく違法取引を主流にして稼ぐ、今のカテルを作り上げたとは到底、思えない。途中からシュテルが主導権を手にした可能性もなきにしもあらずだが、それにしては首領が変わったときに必ず見られる組織運用への変化というものが微塵も現われていない。カテルの方向性はショーンが首領になってからこれまで一度もぶれることなく、一貫性を貫いている。
そのことからカテルをまとめているのはシュテルではない――それがイルセルナの見解だった。
そして今、確信した。
ショーンは紛うことなくカテルの首領だと。
先ほどお飾りと言ったのは、鎌を掛けたのだ。そして彼はそれに引っかかった。
ショーンは外部からそう見えるよう、自らお飾りという皮を被っていた。そしてそれにイルセルナもまんまと騙されたのだと勘違いし、つい態度に出してしまったのだ。
「でも、弟さんはそこまで頭がよくなかったみたいね」
イルセルナのその言葉にショーンはかすかにはっとすると、すぐに苦笑を浮かべた。
「……なるほど。本当に全てをお見通しなのですね。殿下の慧眼には感服いたします。そして先ほどの態度、お詫び申し上げます」
そう言ってショーンは小さく礼をした。嘲笑ったことへの謝罪だ。人に、しかも自分を捕えた相手にそう簡単に頭を下げるなど、自尊心の塊みたいな人間が多い首領としては珍しい。
「気にしてないわ。それに全てはわかっていないし」
「たとえばなんでしょう」
「貴方が大人しく私に捕まったこと。たとえ弟さんが先に検挙の情報を耳にしていたとしても、貴方を囮にするために動いていたのならば貴方が気づかないわけがない」
「それは、殿下が私を買いかぶってくださっているだけですよ」
「そうかしら。私、人を見る目には自信があるのだけれど」
ショーンは上品な笑みを浮かべている。どうやら真実を教えてはくれないらしい。
「あぁ、ですが」ショーンは机に両肘をつくと、口許の前に指を伸ばしたまま手を組んだ。「ここまで来てくださったお礼も込めて、情報源については一つお教えいたします」
「へぇ、なに?」
「貴女の部隊に裏切り者はいません」
「そんなの元より、疑ってもいないわ」
「そうですか。でしたらお礼になりませんでしたね」
「そうね。このままでは私が貴方の頼みを聞いてあげる理由がないわよ」
「そうですね。ですが、私は死刑囚です。死刑囚には、神の名の下に可能な限り一つだけ、慈悲が与えられると聞いています」
「その通りだけれど、でもそれを持ち出してくるのならば、わざわざ私を呼びだす必要はなかったんじゃない?」
尋問官か担当獄吏官に言えば済む話だ。
「できればここの方々を通したくはなかったので」
「私である理由があるのね」
「それもありますが、それ以前にここの方々に言っても願いを聞き入れてもらえなかったと思います」
「そう言われるとこちらも叶えてあげられる自信がなくなってくるのだけれど」
「ご心配なく。たとえ殿下が願いを聞き入れてくださらなくとも、私は決して殿下を恨んだりはいたしません」
「そう言われると逆に怖いんだけど」イルセルナはふっと笑うと続けた。「まぁ、いいわ。聞くだけ聞いてあげる。なに?」
「最後に、会いたい人がいるのです」
「なるほど。私が知っている人間なのね」
「ご理解が早くて助かります」
「誰?」
ショーンは目を閉じると、ゆっくり瞼を開けてからその名前を口にした。
「フラウリア・ミッセル」
「……!」
予想だにもしなかった名前に、イルセルナは驚いた。
「彼女に、お会いしたい」




