大陸暦1977年――07 嫉妬
「――ということで明日はフラウリア様のお見送りをしてから出かけますので、起きられたら食事は温めて食べてください。戻りは十五時ぐらいになると思います」
仕事場のソファで書類を見ている私に、デボラはそう言った。
「あぁ」
私は書類を見ながら答える。
デボラは基本的に休みを取らない。なんでも料理や家事が趣味みたいなものだから休みはいらないらしい。ただその代わりに私用があるときは自由に抜けさせて欲しいと言われている。今のはその報告だ。
「ベリト様、ちゃんと聞いてます?」
空返事に聞こえたのか、デボラが疑うように訊いてきた。
「聞いてる。飯を自分で用意しろだろ。言われなくともわかっている」
「そんなこと仰って、以前、面倒くさがって食べてなかったじゃないですか」
「あれは面倒だったんじゃなくて、腹が空かなかっただけだ」
本音半分、言い訳半分で答えると、デボラがため息をついた。
「ベリト様、私がいなければ今ごろ栄養失調で痩せ細っていますよ」
呆れるようにそう言ったデボラに特に返事もせず書類を読み続けていると、外に気配を感じた。次いで仕事部屋の扉が開かれる。
「ただいま戻りました」
フラウリアだ。修道院の仕事から帰ってきたのだ。
「お帰り――」
書類から仕事場の出入口に目を向けて、言葉に詰まった。
「お帰りなさいフラウリア様――あら」出入口に背を向ける形で立っていたデボラも振り返りそれに気づく。「それ、どうされたのですか?」
フラウリアの手には花束が持たれていた。
「それが、売れ残ったからとカルさんがくださって」
フラウリアは困ったように眉を下げる。カルというのは近くの花屋の息子の名前だ。
「お断りしたのですが、店主さんにもいつもごひいきにしていただいてるからもらってやってくださいと言われまして」
つまり押し切られてしまったらしい。ケンに本をもらったときみたいに強く出られなかったのだろう。
「まぁ、ひいきにしているのは確かですし、そういうときは遠慮なさらなくていいんですよ」デボラが言った。「折角ですからフラウリア様のお部屋にでも飾りましょう」
デボラに花束を取られて、フラウリアが慌てる。
「自分でします」
「いえいえ、フラウリア様はお仕事でお疲れなのですからゆっくりしていてください」
そう言ってデボラはさっさと自宅側の扉へと向かったが、その途中、立ち止まると「あら」と声をあげた。
「花の間になにか入っていますね」
背を向けていたデボラがこちらに向く。その手には小さな紙が持たれていた。
「フラウリア様へ宛てた手紙みたいですよ」
「え」
デボラはフラウリアにそれを渡すと、部屋から出て行った。
フラウリアは戸惑いながらもその紙を見る。なんとなく内容の想像がつきながらその様子を見ていると、少ししてフラウリアが手紙から顔をあげた。
「今度の休暇、お茶に誘われました」
やはり、と私は思った。
あの花屋の息子がフラウリアに気があるのは、初めて見たときから気づいていた。あいつがフラウリアを見る目は、明らかに好意を抱いているものに向けるものであったから。
だが、これまで壁近で沢山のクズからまともな人間を見てきた経験から、あの息子はフラウリアに害を及ぼすような人間ではないと判断していた。だからフラウリアにも特に忠告をすることなくほうっていたのだが……そうか、まともな人間は人間ならではの行動を起こすのか。
「どうしましょう」
困り顔でフラウリアが訊いてくる。
どうしようって……そう言うことは迷っているのか。
それを受けるか、受けないかを――……。
「お前の好きにすればいいだろ」
私は書類を置いてソファから立ち上がると、フラウリアの横を抜けて自宅側の扉に向かう。
「ベリト様」
「夕飯まで部屋にいる」
呼びかけを振り払って仕事部屋を出た。それから早足で自室へと戻る。扉を閉めると自然と大きなため息が出た。
いくらなんでもあんな言いかたはないだろうと、自分で自分に呆れる。
だがあいつが迷っている姿をみて、私は今まで感じたことのないぐらいに苛立ちを覚えた。
この感情がなにから来るものかぐらいは流石に、想像がつく。
私がそんな感情を持っていたことが……驚きだ。
それから自室で一人、自己嫌悪に陥りながら開いた本をただ見つめて過ごしていると、デボラが夕食だと呼びに来た。
夕食は、静かだった。
いつもその日にあったことを話してくるフラウリアが、なにも喋らないからだ。デボラと受け答えをする以外はただ黙々と食事を摂っている。その様子だけを見れば落ち込んでいるようには見えなかったが、それでもこいつらしくないその姿を見て、そしてその原因が自分だと思うと胸が痛んだ。
フラウリアがここに来て以来、静かな夕食が終わったあと、私が一人になったところでデボラが『早めに謝っておいたほうが気が楽ですよ』と言ってきた。私がなにかをした前提の言葉に普段ならなにかしら言い返していたところだろうが、今日ばかりはなんの反論の余地もなかった。
その後、風呂から出ると、いつものようにフラウリアが部屋に来ていた。
ソファで本を読んでいる。あいつはちらっとこちらを見ると、すぐに本に視線を戻した。いつもなら本を閉じて私に話しかけてくるのに、今日はそれがない。
私は気まずさを感じながら、どこに座ろうかと考える。が、ほかのところに座るのも変だと思い、結局はいつも通りフラウリアの横に腰を下ろした。それから本を読んでいるフラウリアの顔を横目で窺う。
デボラの想像通りなにかした――私が悪いのは確かだ。だから謝る気はある。
しかし素直に謝罪をするのは結構、難しい。かなりの勇気が、いる。
これまでまともに人に詫びたことがないから尚更に。
だが、このままの状況であり続けるのも正直、辛い。
勇気と辛さを天秤に掛けた結果、私は意を決して口を開いた。
「フラウリア」
変に緊張を覚えながら呼ぶと、本から顔を上げてフラウリアがこちらを見た。
「はい」
その声音にも表情にも、落ち込んでいるような様子はない。そう、夕食のときにも思った通り、こいつは私の言葉に落ち込んではいないのだ。そこが不思議ではあったが、私は前を向いて話を続けた。
「その、夕方の話だが」
「はい」
「花屋の息子は悪い人間ではない、とは、思うのだが」
「はい」間があくごとに、フラウリアがこまめに相槌をしてくる。
「だが人間など、見ただけでは内面などわからないし」
「はい」
「お前の場合は、体質のこともあるし」
「はい」
「よく知らない男と二人で出かけるのは、お勧めできないというか――……いや」
違う。
そうではない。
私が本当に伝えたいのは、それではない。
そう思った途端、私は自然とフラウリアへと顔を向けていた。フラウリアはその行動に驚くようにこちらを見ている。私はその顔を真正面から見据えながら、言った。
「つまりは、行かないでほしい」
花屋の息子がどんな人間かとか、フラウリアの体質がどうとか、今に限ってはそんなのどうでもいい。そんなのただの建前だ。
たとえ相手が善人でも、フラウリアの体質のことがなくとも、私は同じことを思う。
こいつに行って欲しくないと思う。
そう。結局のところ嫌なのだ。
誘いを受けるかどうかを迷っているこいつを見るだけで苛立つぐらいには。
こいつが好意を抱いている人間と出かけてしまうのが、嫌なのだ。
フラウリアは瞬きをしながら私の顔を見ていたが、やがて顔を緩ませると微笑んだ。
「はい。行きません」
その嬉しそうな顔を見て、気づく。
こいつは……最初から気づいていたのだ。
私がどうしてあのように冷たくあしらってしまったのかを。
その態度がなんの感情から来るものかさえも――。
落ち込んでいなかった理由がわかり、私はいてもたってもいられなくなり顔を逸らした。
「別に、無理に言う通りにする必要はないんだぞ」
その行動を誤魔化すように、思ってもないことを言ってしまう。
「無理にではありません。私、休暇のときはなるべくベリト様と一緒に過ごしたいと思っていますから」
「今でも十分、一緒にいるだろ」
平日でも毎日こうして夜は一緒に過ごしているし。
「もっといたいんです」
恥ずかしげもなくそう言われると……反応に困る。
この羞恥と嬉しさが入り交じる感覚にはまだ、慣れない。
「それに最初からお断りするつもりでしたし」
……最初から?
意外な言葉に、私は思わずフラウリアを見た。
「迷って、たんじゃないのか」
「はい。迷っていました。どうお断りしたらいいかを」
「…………」
早とちりして一人、勝手に苛立っていたことが恥ずかしすぎて、柄にもなく顔が熱くなる。
そんな私を見て、フラウリアは楽しそうに笑った。




