大陸暦1975年――03 空の王女2
「お嬢さんをお連れしたわよ」
女性は扉を叩かず、無造作に院長室の扉を開けると言った。
私はいいのだろうかと焦りつつも「失礼します」と口にしてから、女性の後に続いて室内に入る。
執務机に座っていたユイ先生は私達を見やると、持っていたペンを置いてから立ち上がり、こちらへと歩いてきた。
「ありがとうございます。フラウリアも再々、お呼び立てしてすみません」
「いえ」
私は目の前までやって来たユイ先生を見上げてから、思わず横の女性に視線を向ける。
その様子で察してくれたのか、女性に向けてユイ先生が言った。
「挨拶していないのですか?」
そう、女性はここまでの道中、名乗ることはなかった。
それどころか私の体調を訊いたあとは一言も喋らなかった。
私も自分から訊けばよかったのだけれど、女性が染み入るような微笑みを浮かべながら歩いていたので何だか声がかけられなかった。
「私、人見知りだから」
女性は肩をすくめて、おどけるように言った。
そんな女性にユイ先生は困ったような呆れたような感じの表情を浮かべると、息を吐いた。
「何を言ってるんですか。貴女が人見知りだとしたら、全人類が人見知りになってしまいます」
「お、言うわねえ」
楽しそうに笑う女性に、ユイ先生は仕方がないとでもいう風に「まったく」と小さく零すと、表情を正してからこちらを見た。
「フラウリア、貴女はお目にかかるのが初めてでしたね」
ユイ先生が女性に手を向ける。
「この方はアーヴィン星王陛下の妹君、イルセルナ・デル・フレン・センルーニア殿下です。ご挨拶を」
一瞬、ユイ先生が何を言っているのか理解できなかった。
……いや、頭では理解はしている。その名前だってもちろん知っている。
だってそれはある意味、そう、先ほど歴史書を読んでいる時にも思いかけたけれど、孤児ですら知っているもっとも有名な王族の名前――。
――イルセルナ王妹殿下。
殿下が有名なのには一つの理由があった。
歴史書によれば、稀代の神星魔道士であった初代星王の血を受け継ぐ星王家の人間は例外なく、魔法素養を生まれ持つとされている。
けれどイルセルナ殿下には魔法の素養がなかった。
それだけでなく、殿下には魔法の素養に大きく関わる、生物が体内に必ず生まれ持つとされる神から与えられしもの――粒子そのものがなかった。
殿下は人間の中で稀に生まれる持たざる者、マドリックだったのだ。
星王家でマドリックが生まれたのは国が始まって以来、初めてのことだった。
だから当時は大変な騒ぎになったという。
それは王家の醜聞など普段は耳に入ることのない壁区の人々にも届くほどのものだったらしく、だからだろうと思う。物珍しさに二十年以上経った今でも壁区の人々に、そして孤児達に伝わっているのは。
マドリックの揶揄としての空っぽと、星王家の象徴色である青色。
二つの意味を合わせ持つ二つ名で呼ばれている王女。
空の王女、イルセルナの名前が――。
どうしてそんな人がここに――公務の一環だろうか。王族が孤児院などを訪れる話は聞いたことがあるけれど、修道院もそれに含まれているのだろうか。それとも――いや、今は理由とかを考えている場合ではない。
まずはユイ先生に促された通り挨拶を、挨拶をしないと――……でも、どう挨拶すればいいのだろう。立ったままでいいのだろうか。それとも跪いたりしなければいけないのだろうか。でもユイ先生は立っていらっしゃるし、先ほどアルバさんもリリーさんも座ったまま挨拶をしていた。だからこのままで――いやでもそれはもう顔見知りだからという可能性もある。
だからといって跪いた挨拶の仕方も私には分からない。
王族を前にしての所作など私は知らない――知るはずがない――。
「――フラウリア・ミッセルと申します。お目にかかれて、光栄です」
いろいろ考えた挙句、私は手を胸に礼をした。
これで合っている自身は全くもってない。
これが失礼でないかどうかも分からない。
だから緊張で胃が締め付けられ、背筋には冷や汗も浮かんでくる。
冷や汗なんてかいたのは凄く久しぶりだ。孤児のころに人さらいから隠れていた時以来かもしれない。何だかたとえがものすごく悪いけれど、つまりはそれほど動揺しているということだった。
そこで気づく。先日アルバさんが言っていた、私が驚く人物、というのは殿下のことだったのだと。
「よろしく。フラウリア」
そう言って殿下は手を差し出してきた。その顔には微笑みが浮かんでいて、特に不快なものが混じっているようには見えない。
一先ず挨拶の仕方に失礼はなかったのだと安堵を覚えながら、おずおずとその手を握る。殿下は私の手をしっかりと握り返して握手を交わしてくださると、言い慣れた様子でそれを口にした。
「私のことはルナって呼んでね」
殿下の要望に私の緩みかけていた胃が再び、きゅっ、と締め付けられた。
それを同年代とか同じ立場の人から言われたのならば、まだ受け入れようがある。でも相手が王族となるとそうもいかない。
確かに思い返してみれば、先ほどロネさんも『ルナさま』とは呼んでいたけれど、それは無邪気な彼女だからこそできる芸当な気がしないでもない。それともリリーさんとアルバさんも同じくそう呼んでいるのだろうか……?
いやだとしても孤児であった私が王族を愛称で呼ぶだなんて、そんなこと、とても恐れ多くてできるわけがない。
「それは、失礼に、あたります」
だから私はそう、答えた。断ることも失礼にあたらないだろうかという心配からか、それは絞り出したかのような声だった。
すると殿下はすぐに「それを決めるのは貴女じゃない。私よ」と言った。
「そして私は失礼だなんて微塵も思わない。それにね、ここへは公務で来ているわけじゃないの。個人的な用事で来ているの。だからそう呼んでくれたほうが私としては助かるし嬉しい。どう? 納得してくれないかな?」
そう言って殿下は覗き込むようにこちらを見た。
理由については理解ができる。でも気持ちは別問題だ。
頭では受け入れられはいても、まだ私の心はそれを受け入れることに躊躇している。
だけど殿下の青い眼を見ていると、どうしてか受け入れられそうな気もしてくる。
それはその空のような瞳が――空が、身近なものだからだろうか。だから親近感でも湧いてしまっているのだろうか。
「――はい」
私は粛々として頷いた。いずれにしても殿下にそこまで言われてしまっている時点でもう、断ることはできなかった。
「ありがとう」
殿下は――ルナ様そう言って微笑むとユイ先生を見た。
その視線を受け取るようにユイ先生は小さく頷くと、口を開いた。
「それで、貴女に来て頂いたのは他でもありません。先日、ロネの代わりに課題をお届けしたいと申し出た件についてです」
「あ、はい」
そうだった。私は呼び出されてここに来ていたのだった。
ルナ様の存在と正体の衝撃が大きすぎて、そのことを今の今まですっかり忘れていた。
「今後は貴女が担当になります」
ユイ先生の言葉を聞いて、私は思わず頬を上げてしまった。
あれから日にちが経つにつれ、もしかしたら駄目なのだろうかという思いも浮かんでいたので、こうして無事に許可を頂けたことが余計に嬉しかった。
私は「ありがとうございます」と頭を下げる。
これでまた、リベジウム先生と会うことができる――そう思うだけで不思議と気分が高揚するかのようだった。
この間は離れた場所で会話らしい会話もできなかったけれど、今度は近くでお話しすることができるだろうか、会ったら何を聞いてみようか――と一人先走って考えていると、それに釘を刺すかのようにユイ先生が「ただ」と口にした。
私は、はっ、として緩んでいた頬を引き締め直す。
「それに伴い、一つだけ、約束して欲しいことがあります」
「約束、ですか」
「はい。リベジウム先生には触れないように気をつけて下さい」
ユイ先生は少なくとも私にとっては意外なことを口にした。
私は思わず「え」と声を漏らしてしまう。
……触れてはいけない?
寄り道をしてはいけないとか、決まった道を通るようにとか、挨拶を忘れないようにとか、そういうことではなく、リベジウム先生に触れてはいけない?
それはいったい、どういう意味、なのだろうか。
「約束して頂けますね?」
私がすぐに返答できずにいると、ユイ先生が念を押すように言った。
その口調はいつも通りの柔らかなものなのに、どことなく有無を言わさない雰囲気をまとっている。まるで追究されることを拒んでいるような、もしくは事情があることを察して欲しいと示しているような……。
それがいったい何なのか気にならないと言えば嘘になるけれど、だからと言って無理に知りたいとも思わない。誰にだって話せないこと、話したくないことはあるから。
それにたとえどんな理由があっても、リベジウム先生と会う上で必要ならば、私はこの約束を受け入れるしかない。
「はい。約束します」
幸い、約束ごと自体はそんなに難しいことではないように思う。
触れないようにするぐらいなら簡単だ。そもそも普通に生活してても、そんなに人に触れる機会はないのだから。
私の返事を受けてユイ先生は控えめな微笑みを少し深めると、頷いた。
「もし何かあったら言ってね」
話が終わったのを見はからったようにそう言ったのは、今まで静観していたルナ様だった。
「あの偏屈先生とは友人なの」
それを聞いて私の中には納得する気持ちと意外な気持ち、二つの思いが同時に浮かんだ。
納得したのは先ほど図書館でのルナ様の口調からして、そうではないかと思っていたからだ。
そして意外だったのはやはり、不思議な組合わせだと思ったからだ。
王族と開業していない治療士、どう考えてみても全く接点が見当たらない。
一体全体どうやって知り合ったのだろうか、正直とても気になる。
それだけでなくリベジウム先生がどんな人なのかも、ご友人の口から聞いてみたい――。
でもそんな思いに駆られながらも、それを出会ったばかりの王族に問えるほどの勇気は私にはなかった。




