大陸暦1977年――04 ご機嫌
腕の中に柔らかく温かな感触があった。
それに気がついて、私は瞼を開ける。
するとおぼろげな視界に、明るい白が入り込んできた。明るいのは夜が明けているからで、白いのはシーツか枕の色だ。それだけで自分が横向きに寝ているのがわかる。
私はいつも仰向けで就寝するのだけれど、そうしても起きたら横向きになっていることが多い。おそらく孤児時代に、狭い場所で身を丸めて寝ていた癖が残っているのではないかと思う。
私はまだぼんやりとしている視界と頭を起こそうと、何度か瞬きをした。……でも、どうしてかうまく動かない。なんというかいつもより瞼の動きがぎこちなく感じる。寝過ぎたのだろうか。
「起きたか」
ふいに声が聞こえた。低めの、聞いていてとても心が落ち着く声が。目覚めきっていない頭でも、その声が誰なのかはもちろんわかっている。ベリト様だ。そうか。昨日はルナ様が夜はお休みだったから、ベリト様も一緒に就寝されたのか。
「はい……おはようございます」
声を出して違和感を覚えた。なんだろう……声が頭に響くというか重い。
寝起きは悪くないほうなのだけれど、夢でも見たのだろうか。……いや、確かになにかいい夢も見た気はするけれど、それとは違う鈍い重さがある。
「おはよう」
それになんだか、これまでベリト様とベッドでお話していたときよりも声が近い気がする……まるですぐ上から聞こえてくるような――。
そう思い視線を上げると、ベリト様の顔が見えた。
いつもは真横に見える彼女の顔がそこにある。こちらを、見下ろしている。
状況が読み込めず、ベリト様の顔を見ながら何度か瞬きをしてしまう。
それから腕の中の感触が気になって、視線を下に戻した。
私の腕の中には、腕があった。
……あれ?
もう一度、視線を上げて、また腕を見て、それから私は飛び起きた。
え? え? え?
どうして私、ベリト様の腕に抱きついて――!?
寝ている間に、知らずうちに抱きついてしまったのだろうか……?
それとも寝る前から……?
どうしてかそこに至った経緯が全く、思い出せない。
昨日の記憶が、ない。
それでも私は考える。
気持ちが動転しながらも、必死に昨日のことを思い返してみる。
はっきりと覚えているのは……夕食だ。ベリト様と夕食を食べて、そのあと居間でお茶をしていたのだ。それでお話しをしながら紅茶を頂いていたら……そうだ。ルナ様とユイ先生がいらしたのだ。それでルナ様にお酒を勧められて飲んで――そう、お酒だ。お酒をいただいたのだ。
それを飲んでいたら段々と頭がふわふわしだして、そしてその辺りから完全に記憶が途切れている。
「あの、私、昨日、途中から記憶がなくて。なにか、粗相をしませんでしたか……?」
上体を起こして凝り固まった体をほぐすように動かしているベリト様に、私は恐る恐る訊いた。
「粗相か」ベリト様が小さく笑う。「そうだな。したかもな」
それを聞いて、自分でもさっと血の気が引くのを感じた。
でもそれと同時に、笑ってるベリト様にも衝撃を受ける。
そんな私を見て、ベリト様はまた笑うように鼻から息をはいた。
「冗談だ。寝落ちして、そのあとは左腕を人質に取られたぐらいだ」
ベリト様が冗談を――それにまた衝撃を受けながら思う。腕を人質にって……それって昨夜からずっとベリト様の腕を離さなかったということだろうか……? それも十分、粗相なのでは……?
その事実に今度は顔がじわじわと熱くなってくる。
「だから気にするな。それと家ではいいが、外では酒を飲むなよ」
そう軽く忠告するように言うと、ベリト様はベッドから下りて洗面場へと入っていった。
その姿が見えなくなってから、私は恥ずかしさで口許を両手で覆う。
子供のころにお酒を飲んだときは、こんなことにはならなかった。
そのときは一口しか飲んでいなかったからかもしれないけれど、でもその飲んだお酒は昨夜のものよりも確実に強いものではあったし、これまた昨夜と同じく頭もふわふわっとはしていた。だけど、それでも記憶も意識もはっきりしていて、寝落ちすることもなかった。……そう、酔ってはいても、昨夜みたいなことにはならなかったのだ。
つまりはこういうことだ。
ベリト様のそばだと安心して、つい気が緩んでしまったらしい。
そんな自分に呆れながらも、らしいなとも思ってしまった。
気を張らなくてもいいぐらいに、私は本当にベリト様を信頼しているのだなと。
それ自体は悪いことではないのだろうけれど、でも流石にベリト様の前で醜態を晒すのはよくない。
今後は外でお酒を飲まないのはもちろんのこと、ここで勧められたとしてもできるだけ飲まないようにしよう。
それにしても、と私は自分の手を見る。
昨夜はずっとベリト様の腕を抱いていたのか……。
それを覚えていないことが少し、残念に感じた。
いや、覚えていても今ごろ羞恥で悶えていたことだろうとは思うけれど……それに酔っていなければ絶対、そんなことできないし。
……でも、いつかはできるようになるだろうか。
ベリト様と普通に腕を組むことが、できるだろうか。
そう考えて私は思わず、苦笑した。
まだベリト様の手に触れられるようになったばかりだというのに、彼女が握り返してくれたばかりなのに、そしてそれだけでも嬉しくて幸せで胸がいっぱいなのに、それなのにもっと先を期待してしまうなんて、私は本当にベリト様に対しては欲張りだ。
「どうした」
水の音を背にベリト様が洗面場から出てきた。
「もしかして体調が悪いのか?」
ベッドから動いていない私をベリト様が気遣ってくれる。
「あ、ええと、少し、頭が重くて」
私は直前に考えていたことが恥ずかしく感じて、思わず言い訳のようにそう言ってしまった。いや、頭が重いのは本当だけれど。
「軽い二日酔いだな。解毒魔法、かけてやろうか」
「いえ……! そこまでではありませんから、大丈夫です」
慌ててベッドから飛び降りる。
「お邪魔しました。支度してきます」
軽く礼をして部屋の外に出た。そしてすぐに後悔が襲ってくる。
魔法をかけてもらったらよかったな、と。
そうしたらベリト様から触れてもらえたのに……。
折角の機会を逃して残念に思っていると、背後からガチャという音と同時に「おい」と声がした。
びくっと体が跳ねながらも、振り返る。
「はい」
「忘れ物」
ベリト様が屈んで足下になにかを置いた。
見るとそれは昨日、私が履いていた靴だった。続けて自分の足下が目に入る。靴下だ。……靴下?
「ほらこれも」
手を差し出されたので、慌てて手を出すとそこにリボンが置かれた。シャツに付けていた紐リボンに、頭に付けていた髪留めのリボンだ。
それでやっと自分の状態に気づく。
「服のまま、寝ていたんですね」
「今ごろ気づいたのか」ベリト様が小さく笑う。
「お恥ずかしながら……ベリト様が外してくださったのですか」
「あぁ」
よく見たら、ベリト様も昨日の服のままだ。おそらく私がその、腕を人質に取ったせいで着替えることもお風呂に入ることもできなかったのだろう。だから先ほど洗面場から出てこられたとき、水の音がしていたのだ。あれは浴槽に水をためていた音だ。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「セルナの酒癖に比べたら、こんなの迷惑のうちにもはいらん」
「ルナ様、酒癖が悪いのですか?」
「悪いというか、うざい」
その言い様に思わず笑ってしまう。
「昨日はそこまで飲む前に帰らせたがな」
「そうですか。お見送りもできませんで……の前に寝てしまって失礼でしたね」
「あいつも何度も寝落ちしたことがある。気にするな」
「あの」
部屋に入りかけたベリト様を呼び止める。
「お風呂、入ってもいいですか」
ベリト様はまたふっと小さく笑うと。
「好きに入ればいい。朝でも夜でも一日二回でもな」
そう言って部屋に戻って行った。
……今日のベリト様は……よく、笑っている。
もしかして機嫌がいい、のだろうか。
私、迷惑かけたと思うのに……。
そんなご機嫌なベリト様を不思議に思いながら、私は靴を履いて自室へと戻った。




