大陸暦1977年――04 抑制されたもの
そのあと開けていたワインを飲みきったところで、まだ飲み足りなさそうにしていたセルナをユイとデボラと一緒に説得してからお開きにした。
「それではお二人を送ってから、そのまま帰宅させていただきます」
玄関を背にしてデボラが言った。
「あぁ」
「ベリトまったねー」
まあまあ酔いが回ったセルナが、大げさに手をあげる。
それとは対照的に、来たときと変わりない様子のユイが小さく礼をした。
「おじゃましました」
三人が玄関から出て行くのを見届けてから、鍵を閉めて居間へと戻る。
居間のソファではまだフラウリアが寝ている。先ほどまでセルナが賑やかだったにもかかわらず、全く起きる様子は見せていない。どうやら相当に寝入っているらしい。
「フラウリア」
起こしたところで起きるだろうか――そう思いながらもとりあえず呼びかけてみると、意外にもフラウリアはすぐに目を薄らと開けた。
「寝るなら部屋で寝ろ」
フラウリアは何度か瞬きをすると、上体を起こしてソファに座った。それから無言で目の前に立っている私を見上げてくる。その瞼は重そうで、目もおぼろげだ。そして、そこから動き出す気配もない。
これはまだ半分、寝ているな……。
これがセルナとかならばこのままここに寝かせて遠慮なく置いていくのだが、フラウリアとなると一階に一人で残しておくのは心配になる。だからといってこいつを抱えるほどの力は私にはないし、肩を貸すにしても自分から触れるのにはまだ、躊躇してしまう。……情けない話だが。
いっそこいつが起きるまでここにいて、それでも起きなければ私もここで寝るか。
そう思って、部屋からかけるものでも持ってこようと動きだそうとしたとき、ふいにフラウリアから手が伸びてきた。
右腕を掴まれ、意識がぐらつく。
酔っている人間に強く接触されると、こちらにも影響がある。
以前、かなり酔ったセルナに抱きつかれたときには、吐き気をもよおしたこともあった。
フラウリアも酔ってはいるようだがアルコール摂取量が少ないからか、そこまでの影響はない。先ほど感じた意識のぐらつきも、もうすでになくなっていた。
「ほら、立て」
掴まれたついでだと思い、私はこのままこいつを連れていくことにした。
フラウリアは私の言葉に素直に従って立ち上がると、右腕に抱きついてきた。それに少しばかり気恥ずかしさを感じながら、そのまま自分の腕を支えにさせて自室へと向かう。
起きてからこのかた、フラウリアはなにも喋らなかった。腕を掴んでいる相手が私だということを認識しているのかも怪しい。
これは本当に、外で飲ませないほうがいいかもしれない。
ユイや、まぁ友人のアルバならともかく、誰彼構わずこう抱きつくとなると……面白くない。
それから足下がおぼつかないフラウリアを腕で引っ張り、なんとか階段を上らせて自室へと辿り着いた。
「ベッドに座れ」
言われた通りフラウリアはベッドに腰を下ろすと、先ほどと同じくおぼろげな目でこちらを見上げてきた。腕は掴まれたままだ。
この調子だと着替えさせるのは……無理か。
仕方がないと、私はベッドのシーツをめくるとフラウリアの靴紐を緩めた。
「もうこのまま寝ろ」
フラウリアは靴を脱いでベッドに足をあげる。が、それでも腕は離してくれない。
「フラウリア、腕を離せ」
「いやです」
そこでフラウリアは、起きて初めて声を発した。
おぼつかない、だがはっきりとした意思を宿した口調で。……て、嫌って。
「このままじゃ寝られないだろ」
そう言うと、掴まれた腕に力が込められた。
「ベリトさまといっしょにねます」
なんだ。ちゃんと私と認識して抱きついているのか――そこは安堵しながら返す。
「私はまだ眠く――」
ぐいっと腕を引かれて前のめりになる。
「ねます」
フラウリアは重そうな目で、こちらを見据えてきた。
これは……以前に掃除をしたいと言われたときと同じ感じがする。
相手に有無を言わさない、我を通すような感じ。
こいつがこうなるのは、そうないことだ。
そしてこうなったら、こいつは折れない。
「……わかった」だから私が折れた。「寝るから一旦、離してくれ。ベッドに上がりにくい」
そう言うとフラウリアは手を離した。酔ってねぼけていてもこういうところは素直だ。
私はベッドの左側に回り込むと、上がって仰向けに寝た。するとすかさずフラウリアが左腕に抱きついてくる。それから私の腕に顔をすり寄せて満足そうに笑うと、すぐに寝息を立て始めた。感心するぐらいの寝付きのよさだ。
全く……と私はため息をつく。
酔って寝るだけかと思いきや、これはなんて言うんだろうな。
笑い上戸や泣き上戸ならぬ、甘え上戸、とでも言うのだろうか。
そう考えて、脳裏にセルナの言葉がよぎる。
――酔うと抑制されたものが出るというわよね。
……もしかしてこれが、そうなのか。
普段からもこうして甘えたいと、思っているのだろうか。
それはあながち……間違っていないのかもしれない。
こいつは両親を――甘えられる人間を早くに失った。それから孤児として生き残るために、誰かに甘えるどころか隙を見せることすらも許されなかった。
思えばそれは私も同じだ。とはいえ私はこいつみたいに両親と死に別れたわけではない。捨てられたあとも引き取ってくれた人はいたし、それなりに親代わりもしてくれた。それでも両親のことがあった私は、その人に一度も心から甘えることなどできなかった。
そう考えれば境遇は違えど、意外にも私たちは似たもの同士なのかもしれない。
子供のころ人並みに甘えることができなかった分、甘えられる人間を欲しているのかもしれない。
人の愛情に……飢えているところがあるのかもしれない。
視線を落とす。左腕は抱き枕のようにフラウリアにがっちりと抱かれている。
寝付いたらほどいて離れようと思っていたのだが、これでは無理そうだ。
どうやら私も、寝るしかないらしい。
私は観念して、フラウリアの後頭部に手を伸ばした。
そこにあるリボンの髪留めを取って、編み込まれた髪を指で軽くほぐす。それから寝苦しいだろうと思い、首元の紐リボンをほどいてブラウスの上のボタンを何個か外して緩めてやった。
するとふいに、ブラウスの隙間から傷跡が垣間見えた。
途端、胸に軽く痛みが走る。
……そうか、ここにはまだあるのか。
こいつが去年から、ユイに全身の傷痕を消す治療を受けているのは知っていた。
だが修道服は長袖であるのと、こいつは傷跡のこともありスカートの下も常にタイツを履いていたことから、どれぐらい治療が進んでいるのか知らなかった。
そして先日、私服姿を見たとき、七分袖のブラウスから見えた腕や、スカートから見えた足を見て、治療は終わったのだと思い込んでいた。
どうやら先に人目に触れそうなところから治療していたらしい。そしてまだ全部は終わっていないようだ。
それも当然か。こいつの傷跡は全身に渡ってあったのだ。あれだけの傷、一年で治りきるわけがない。
傷跡を消す魔法はその人の皮膚として固定されてしまった傷跡を、徐々に元通りの綺麗な皮膚へと変換するものだ。それは何度かに渡って魔法をかけなければならず、一つの傷跡を元通りにするだけでもそれなりに日にちがかかる。
それでも毎日欠かさず魔法をかければその分、治療は早く終わるだろうが、星教の色付きであり癒し手としても多忙なユイがそれをするのは難しい。
それならばフラウリア自身にやらせればいいと思うだろうが、傷跡を消す魔法は扱いが難しい。未熟なものが使えば、余計に傷跡が鮮明になったり広がったりしてしまう。そしてこの魔法は神星魔法のため、水属性と火属性が専門の私には扱えず代わりにかけてやることもできない。
おそらく今後もユイが継続して治療をするのだろうが、胴体の傷が残っているのならば全部、終わるまでにはまだ時間がかかるだろう。
そしてたとえ全ての傷跡が消えたとしても、その記憶がなくとも、こいつの体が――心が、人が一生に受ける以上の痛みを受けたことには変わりない。
私は自然と、フラウリアから引き受けた記憶に意識を向けてしまう。
そのことに気づいたと同時に、違和感を覚えた。
こういうときは必ず、記憶に引き込まれそうになる。
そしてそれに引き込まれてしまったら記憶の感情が蘇り、体調が悪くなる。
だが、今日はそれが全くない。
胸は痛んでも、それはあいつの記憶によるものではない。私自身の感情によるものだ。
こんなことは初めての経験で、なぜだと原因を考える。
考えて、それに思い至る。
……そうか、フラウリアが触れているからか。
先ほどからこいつに掴まれた腕からは、色々なものが流れ込んできている。
今日は酔っている影響から記憶はあまり見えないが、その代わりに感情は鮮明に伝わってくる。
穏やかで幸せそうな色が、視える。
起きているときとなんら変わらない、純粋な色が――。
心の奥底に秘めているものが浮き出やすい無意識下でも視えるものが変わらないなんて、本当にこいつは……単純だ。
こんな幸せいっぱいの色を視させられていたら、私の中のあの記憶も霞んでしまう。
私はフラウリアに手を伸ばす。
少し躊躇を感じながらも、頬に触れてみる。
そこには死者とは違う、生者の温もりがある。
しかし、死者のような静寂はない。
それでも、私の心は乱されない。
不快にも感じない。
温かな安らぎを、覚える。
こいつに触れられることが、嬉しく感じる。
「ん……」
フラウリアが小さく呻いた。
反射的に手を離してしまう。
起こしてしまっただろうかと思っていると、フラウリアはなにやら口をむにゃむにゃしたあとに微笑んだ。
その顔があまりにも締まりがなくて、思わず苦笑する。
いい夢でも見ているのだろうか。
そう思いながら自分の髪をほどいて天井の魔灯を消す。
それから瞼をおろす。
腕から流れ込んでくる感情が自分の中を満たすのを感じながら、私はいつの間にか眠りに落ちていた。




