大陸暦1977年――03 生者と死者1
厨房で昼食の片付けのお手伝いをしていたら、外に不思議な気配を感じた。
「馬車、来たみたいですねえ」
デボラさんの言葉でなるほど、と思う。馬の気配だ。
馬車は何度か見かけたことがあるけれど、あまりきちんと気配を視たことがなかった。そうか、人よりも気配が薄い、というかのっぺりとしてるんだ。
馬車は今日、ベリト様が中央教会に行くためのものだ。昨夜なにで中央まで行くのか訊いたところ、そう言っていた。
ベリト様にお伝えしたほうがいいのかなと思いながら戸棚にお皿を収めていると、後ろから「フラウリア様」とデボラさんに呼ばれた。
敬称で呼ばれることにまだ、むず痒い気持ちになりながら私は振り返る。
「はい」
「お手伝いありがとうございます。あとはやっておきますので、ベリト様に馬車が到着したとお伝えいただけますか?」
まぁ、気づいていらっしゃるとは思いますが、とデボラさんは付け加える。
「わかりました」
私は厨房を出て歩きながらベリト様の気配を探す。彼女は私が昼食前までいた居間ではなく、二階の自室に戻っているようだった。早足でそちらに向かう。
自室前に着くと扉を二回、叩いた。ベリト様には自室でもどこでも勝手に出入りしていいとは言われているけれど、返事があるまで待つ。居間や仕事部屋ならまだしも、ここはベリト様の自室だ。流石にこれは礼儀だと思う。
「開いてる」
少しして返事があった。
ベリト様はこういうときだいたい『開いてる』と答える。寝ているとき以外は鍵を閉めないのに、そう答えるのはなんだか少しおかしい。
そのことに一人、声を立てずに笑いながら、私は扉を開ける。
「ベリト様。馬車が来られまし、た――」
室内に目を向けて、思わず息が詰まった。
「あぁ」
ベリト様は身支度をされていた。
それはこれから出かけられるのだからなにもおかしいことはないのだけれど、その様相が昼食前に見かけたものとは全然、違っていたので私は驚いた。
彼女はいつも綺麗にアイロンされた簡素な白シャツに黒い細身のズボン、そして白衣を黒くしたようなものを着ていることが多い。デボラさんの話によると、ベリト様は服装に頓着がなく、似たようなものを何着か作らせて持っているのだそうだ。
だけど今のベリト様は、いつもの簡素なものではなく意匠が凝った、私から見ても上等そうな黒シャツと黒ズボンを身に付けていた。
それだけでなく首元には白いアスコットタイを締めている最中で、耳にも普段から身に付けている小さな丸いピアスではなく、剣に似た形状の細工がぶら下がっているものに変わっている。そのピアスから微かに粒子を感じるところからするに、なにかしらの魔道具なのかもしれない。
それからいつも下のほうで一つに結われてる髪は、今日は少し上で結ばれていて、自然体で少し長めの前髪も横に分けて整えられていた。
きちんと、という言いかたは失礼かもしれないけれど、そのような格好のベリト様を見るのは初めてで、なんだか動悸を覚えてしまう。
いつもと違う雰囲気の彼女につい見入ってしまっていると、黒く長い上着に袖を通していたベリト様が、ちらりとこちらを見て居心地が悪そうな顔を浮かべた。
「普段着で行くと、セルナが後からうるさいんだよ」
「ルナ様が、ですか?」
「あぁ。貴女の評判は許可を下ろすために動いた私にも繋がるのだから、人前に出るときぐらいは身なりをきちんとしろとかなんとか……」
体裁など気にするタマでもあるまいし、と愚痴るようにベリト様が零す。
そんなことを言いながらもそれをきちんと守っているのだから、なんだかんだでベリト様はルナ様のことを考えているのだなと微笑ましくなる。
「こういうのは柄じゃないんだが……」
続けてベリト様は、言い訳のようにそう言った。
柄じゃない、なんてことはない。これも普段着かと思うぐらいによく似合っている。
女性の容姿や格好を褒める言葉として使っていいものか迷うけれど、凄くかっこいい。なんだか貴族様みたいだ。
そういえばベリト様は食事作法もお上手だし、食事される姿も上品だ。
先日も躾けられて育ったと言っていたし、もしかしたら良いお家の生まれなのかもしれない。……それもいつか、話していただけるときがくるだろうか。
「いえ、とても素敵です」
そんなことを思いながら心からそう言うと、ベリト様は上着の襟元を正しながら「そうか」と気恥ずかしそうに目を逸らした。
支度を終えたベリト様は馬車に乗ってお出かけになった。
それを玄関前でデボラさんと二人で見送ったあと、私は居間で過ごしていた。
デボラさんに手伝えることはないかと訊ねたら『ありませんのでゆっくりなさっててください』とにっこりきっぱりと言われてしまったので、仕方なくこうしてここで本を読んでいる。
仕方なく、とはいっても本を読むことは嫌いではない。
むしろ私の知らないことを教えてくれる本は大好きだ。修道院でも時間が空いたときには大抵、本を読んでいたし、ここでも朝にベリト様が起きられるまでや仮眠をとられているときには、ほかにすることがなければ本を読んで過ごしている。
そのときは一人でもなんとも思わなかったのに、今日はどうしてか気持ちが落ち着かない。
ここに来てからいつもあった、ベリト様の気配が感じられないからだろうか。
それとも修道院のように常に人の気配がないからだろうか。
もちろんこのお家にはデボラさんもいるけれど、彼女は基本的に気配を消している。だから今、この家にいるのは自分一人だけのような気がしてくる。
そのことに少し物寂しさを感じながら横に顔を向けた。そこには立派な振り子時計がある。時間は十六時前だ。
今ごろ、ベリト様は解剖をされているのだろうか。
……そういえば以前、解剖される切っ掛けを訊ねたとき、ベリト様は死者はなにも語らないから心地良いのだと話していた。
それはきっと、死者に触れても記憶や感情が視えないからだろう。
能力がない人にとっては当り前の感覚を、ベリト様はなにも視せてくることのない死者に触れることで感じていたのだ。
そして、おそらくそこに安らぎのようなものを見出していたのだと思う。
温もりのない、冷たい、安らぎを。
だから彼女は人体を理解しても解剖をやめなかった。
死者と触れ合うために、安らぎを得るために、続けていた。
それは壁近に住んでいたときの話のようだったけれど……今は、どうなのだろう。
解剖がお仕事になっても、そう、思っているのだろうか。
温もりのある生者よりも、冷たい死者のほうがいいと――。




