大陸暦1977年――03 意外
入浴を済まして寝支度をしたあと、私はベリト様の自室に訪れてソファに座っていた。
こちらに住み始めて二日目の夜、ベリト様が遠慮するなと言ってくださってからは、もうこれが当然とでも言うようにこうしてしまっている。彼女の隣を陣取って、彼女の寝床で寝てしまっている。
そんな自分に図々しさを感じないわけではない。
折角、私のためにお部屋を用意してくださったのに、身支度とお風呂とお祈りぐらいにしか使っていないのだから。日中にしてもデボラさんのお手伝いをしていないときは、ついベリト様がいるところで過ごしてしまっている。
もちろんベリト様にはお一人になりたいときは遠慮なく言ってくださいと伝えてはいるのだけれど、今のところ彼女はなにも言ってこない。だからそれをいいことに、結局は自分の欲求を優先させてしまっている。
私は横を見る。隣には先ほど、お風呂を済ませたベリト様が長い足を組んで座っている。お風呂場で爪を切ったのか、先が丸い小さなナイフのようなもの――おそらくヤスリだろう――で手の爪の手入れをしている。
勉強を教えていただいているときにも何度か思ったことがあるけれど、ベリト様の手は細くて長くてとても綺麗だ。爪もいつもと言っていいほど、短く切りそろえられている。きっとこまめに手入れをされているんだろうなと思っていたけれど、今それを目の当たりにして感動している。こんなこと、一緒に住んでいないと見られなかったことだから。
だからじっと食い入るように手入れの様子を眺めてしまっていると、ベリト様がこちらに視線を向けてきた。
「見てて面白いか」
素朴な疑問、と言った感じの口調だった。
「はい」
うなずくと、彼女は視線を自分の手に戻した。
「そうか……」
こんなのが面白いだなんて変な奴だな、とベリト様の顔には浮かんでいた。
それがなんだかおかしくて、私は声を立てずに笑ってしまう。
やがて両手の爪の手入れが終わったベリト様は、ヤスリを革のケースに収めながら言った。
「明日」
そこで一旦、言葉を止めたので、私は「はい」と相づちを打つ。
「午後から出かける。夕食には間に合わないから明日は先に食べといてくれ」
「わかりました。どちらに行かれるのですか?」
何気なくそう聞いて、すぐに後悔した。ベリト様の眉根が少しだけ、気まずそうに寄ったからだ。
詮索するつもりではなかったのだけれど……でも、行き先まで聞くのは出過ぎた真似だったかもしれない。そう反省していると、ベリト様が口を開いた。
「中央教会だ」
「中央教会」
その単語がベリト様の口から出るのは少し意外だった。
中央教会は星都の中央区にある星教の本部だ。
星教が国教であり、一応は国民全員が星教徒である星王国では、国民が中央教会に限らず各地の教会へ赴くことはなにもおかしなことではない。
だけどベリト様が、となるとなんとなく違和感を覚えてしまう。
というのもベリト様は食前のお祈りはもちろんのこと、日々のお祈りもしていないからだ。
とはいえそれ自体は珍しいことではない。約三百年前に神様がお隠れになってからというもの、人々の信仰心は薄れてきておりそういう人も増えてきているから。
私だって孤児になる前も、なったあとも、ほとんどお祈りをしたことはなかったし、したとしても星教会の施しで食べものをいただいたときぐらいだった。そして修道院に入ることがなかったら一生、信仰には縁がなかっただろうと思う。
だから人々やベリト様に信仰心がなくても、私はなにも思わない。
なにを信じ、なにを信じないかは、人それぞれだ。
それはともかくとして、そういうこともありベリト様が教会に行くのは意外に思ってしまう。
……いや、そうでもないのかもしれない。
彼女は修道院のお仕事をしているのだから、星教との繋がりはある。そんなベリト様が星教会に用事があってもなにもおかしくはない。
でもベリト様なら、そういう用事はユイ先生に任せそうな気もする。
中央教会は星都の中心地、中央区にあるだけあって多くの人が集まる場所だ。
私も昨年の冬、やっと初めて中央教会に行くことができたのだけれど、教会の中も外も、これまで見たことがないぐらいの人で溢れていた。それはその日が祝日だったのもあるかもしれないけれど、それでも人に接触しないように気を張らなければならないような場所にベリト様が行きたがるとは思えない。
それらの疑問が顔に出てしまっていたのだろう、ベリト様は少し迷うような素振りを見せたあと、それに答えるように言った。
「だいたい月に一回、中央教会の聖域で、人体の個体差の記録を取るために解剖しているんだ」
そういうことかと納得する。
そして先ほどベリト様が気まずそうにしていた理由もわかった。
私が解剖にいい印象を抱いていないと知っているから、彼女はそれを言うことを躊躇していたのだ。
もちろん今でもその気持ちに変わりはない。
たとえ対象が犯罪者であっても、死後に切り刻まれるのは可哀想だと感じてしまう。
でも、最初にこの話を聞いたときのような勝手な思い――ベリト様にそんなことをしてほしくないとか、それを受け入れられない自分が嫌だとか――そのようなものは湧いてこなかった。
それはおそらく、ベリト様が私の受け入れられないところを、それでもそれが私だと理解してくれているように、私も解剖を行なうベリト様を受け入れきれなくても、それがベリト様なのだと思えるようになったからだろうと思う。
これまでそれを意識したことはなかったけれど、一年振りぐらいにこの話題に触れて今、それを実感した。
「それはお一人でされるのですか」
踏み込んだ質問をしてきたのが意外だったのか、ベリト様は少しだけ目を開いた。
「基本的には。明日は死検士の新人が見学に来るらしいが」
死検士とは事件性のある遺体の検死解剖を執り行う星教の役職だ。
「ご指導もされているのですか」
「いや。指導者は別にいる。私は教えたりはしない。まぁ、簡単な解説と、あとはなにか訊かれたら答えはするが」
「そうなのですか」
その様子を想像して、私は心が温かくなった。
たとえ解剖を通してでも、ベリト様が人と関わり合いを持つことは嬉しく感じてしまう。
「お気をつけて行ってくださいね」
「あぁ……」
思わず頬をあげてしまっている私を見て、ベリト様はますます意外そうに眉を寄せていた。




