大陸暦1977年――02 おとなの人
昼食を済ませて居間に行くと、ベリト様がソファでティーカップ片手に折りたたんだ新聞を読んでいた。
私は少し考えてから、いそいそとベリト様の隣に座る。彼女はそんな私を横目で見ると、新聞をソファの上に置いた。
「私のことはお構いなく、読んでてください」
そう言いながら、どの口が言うのだろうと自分に呆れた。
こう隣に座られたら、ベリト様も気になってゆっくり読めないに決まっている。それなのに、それが分かっていながらもこうしてしまったのは、私が自分の気持ちに従ってしまった所為だ。向かいのソファに座るか、ベリト様の隣に座るかを天秤にかけてみたら、少し考えただけでベリト様へと振り切れてしまった。それはもう仕方がないにしても、その通りに行動してしまうのは、我ながら自分勝手だなと思う。
こんな私を、ベリト様も呆れてはいないだろうか……?
そう心配になっていると、彼女はこちらを向けていた視線を前に戻した。
「新聞はいつでも読める」
そして、少しぶっきらぼうにそう答える。
ほかの人ならば怒っているのかなと思うところだけれど、ベリト様の場合は違う。彼女がこうなるのは、だいたいが気恥ずかしく感じているときだ。
それはきっと、新聞より私を優先したことに対してだろう。それを口に出すのが恥ずかしいから、こんな態度になってしまうのだ。
そんな優しくて不器用なベリト様が微笑ましくて、そして私を選んでくれたことが嬉しくて、頬が上がってしまう。自分でも分かるぐらいに、にこにこしてしまっている。
ベリト様はそんな私を一瞥すると、少しだけ眉を寄せてティーカップに口をつけた。その様子を何気なく見ていたら、ふと鼻腔に香りが届いた。
……?
部屋に飾られている花の香りとも違う、紅茶の香りとも違う、今までに嗅いだことのない香りだ。
いったいどこから香るのだろうと不思議に思いながら視線を巡らせていると、ベリト様が口許から離したティーカップの中身が目に入った。カップの中には緑色の液体が満たされている。
「それはなんという飲み物ですか?」
見たことがない色の飲み物に、私はそう訊ねた。
ベリト様は一度、カップを見て答える。
「緑茶だ」
「りょく、茶?」
聞き慣れない言葉に、首を傾げてしまう。
「緑の茶と書いて緑茶。鳴賀椰が日常的に飲む茶だ」
そう言ってからベリト様は「鳴賀椰は知っているか?」と訊いてきた。私は「はい」と頷く。鳴賀椰族については以前、アルバさんとリリーさんとの会話の中で教えていただいたことがある。ここ星王国の南、諸国連合に加盟している、小柄で黒目黒髪が特徴の少数民族のことだと。
「昔、知人が買ってきてな。黒髪だから口に合うんじゃないかって。そのときはそんな馬鹿なと思ったんだが飲んでみたら案外、悪くなくてな。だから今でもたまに飲んでる」
「そうなんですか」
そう返してふと、この話の流れならばベリト様の黒髪について訊けるのではないかと思った。ベリト様も鳴賀椰族の血を引かれているのですか、と。だが、少し考えて、やはり止めておいた。
ベリト様は先日、人に触れてはいけないと躾けられて育ったと言っていた。
そこから想像するに、ご家族は彼女に厳しかったのではないかと思う。触れてはいけないと言うことは、おそらく能力のことをよく思っていなかったのではないかと。
そして、そのことからベリト様も故郷やご家族にあまりいい感情を抱いていないような気がする。それも勝手な想像ではあるけれど、でも先日のベリト様の様子からはそのように感じた。だって、躾けのことを口にした彼女は、わずかだけれど辛く、悲しい顔をされていたから。
そんなベリト様に黒髪の由来を訊くのは故郷やご家族のことを思い出させて、辛い思いをさせてしまうかもしれない。だから、止めておこうと思った。
それに昔のことについては、ベリト様から話してくださるのを待つと決めている。
ベリト様がそれを話したがってはいないことは分かっているけれど、それでも私に話そうと思ってくれていることも知っている。それをベリト様が口にしたことはないけど、彼女を見ているとその気持ちが伝わってくる。これは私の想像でも思い込みでもない。不思議と分かるのだ。
ただ、それをベリト様が話してくださるにはまだ時間が掛かると思う。
それも当り前だ。誰だって辛く悲しい、そして知られたくない記憶を人に話すのには勇気が必要になる。私も昔のことを自分の口で話そうと思ったらやはり、躊躇してしまう。たとえその相手が心を視られているベリト様でもだ。
だから、そうしたいと思っていても踏み出せないベリト様の気持ちはよく分かるし、分かるからこそ話してくださるそのときまで待ち続けようと思っている。
それがいつになろうと、どれだけ時間が掛かろうとも構わない。
彼女が話そうと思ってくれているだけでも私は嬉しいから。
そんなことを緑茶を見据えたまま考えていると。
「飲んでみるか?」
ベリト様がそう言ってきた。
「え」
どうやらじっと見ていたのを、緑茶に興味があると勘違いされたらしい。
いや、それはいいのだけれど……私は視線を下ろす。
そこには私に示すように軽く差し出されているティーカップがある。ということは別に用意するのではなく、自分のを飲んでみるかとベリト様は言っているらしい。ええと、それってつまり――。
気持ちが落ち着かなくなってきた私は、慌ててそこで思考を止めた。たとえ心の中といえどそれを言葉にしてしまったら、顔が沸騰してしまいそうだった。
「新しく入れてもいいんだが、これは結構、好き嫌いが分れる味でな」
すぐに言葉を返さなかった私をベリト様は特段、怪しむことなく――どうやら内心の動揺を顔に出さずに済んだらしい――言った。
「現にセルナもデボラも苦手らしい。だから試しにと思ったんだが……まぁ、無理にとは言わんが」
「いえ……!」
思わず声を張ってしまった私に驚くように、ベリト様が頭を引く。
いけない、と私は気持ちを落ち着かせて言った。
「いただきます」
折角、ベリト様が厚意で言ってくださっているのだ。そのお気持ちを無下にするわけにはいかない。それに、それがなくとも、どのような味がするのか普通に興味もある。ベリト様が好まれて飲まれているものなら尚更に。
「少し温くはなっているが」
そう言ってベリト様がカップを手のひらに乗せて、取っ手をこちらに向けてきた。
それを私は右手で受け取る。右利きだから、自然とそうなってしまう。そしてベリト様も右利きだから、どうしても飲み口は一緒になってしまう。私はそのことからなるべく意識を逸らしてカップに口をつける。
だけど、どれだけ意識しないようにしても、体は正直だ。羞恥で髪の下に隠れている耳が熱くなり、緊張で喉がきゅっと締め付けられる。そのせいなのか、全く味を感じない。
「どうだ?」ベリト様が訊いている。
「……よく、分からないです」
嘘をつくのも嫌なので正直に答えると、ベリト様は少し鼻で息をはいた。
今朝のように口許は上がっていなかったけれど、笑ったのだと分かった。
……そう。今朝のあれには、驚いた。ベリト様が笑ったのは一昨年、ナナさんの治療経過を見に行ったとき以来だったから。……いや、ここに来て初めての夜にも笑っていたけれど、あれはまた別物な気がする。ともかくにも驚いた私はからかわれていることも忘れてつい、まじまじとベリト様を見てしまった。すると彼女は気恥ずかしそうに顔を背けて『寝直す』と部屋に戻って行った。
「大抵の奴は、苦いって言うんだがな」
「そうなんですか」
「あぁ。苦みを感じないのなら、お前も美味く飲めるようになれるかもな」
そう言ってベリト様は私からカップを受け取ると、そのまま一口飲んだ。私が飲んだことなんてまるで気にも留めていない様子で。
……ベリト様は私から見たら結構、照れ屋さんなのに、今朝の小説のことといい、こういうことには動じない。それ以前に全く気にもしていない。
そういうところは……おとなの人だなと思う。
私は横目でベリト様の横顔を覗いながら、今日は髪を下ろしていてよかったなと思った。




