大陸暦1977年――01 誤解
新聞を読もうと一階に下りたところでデボラに会った。
「あら。ベリト様。おはようございます。今日は随分と早起きですねえ」
部屋を出る前に見た時計によると時刻は六時過ぎだった。普段なら朝方に寝るのでまだ寝床に入っている時間ではある。
「まぁ……昨日は早く寝たんでな」
そう口にしてから今さらながらに気づく。いつもより睡眠時間が長かったなと。
こんなに寝たのは昨年末、フラウリアが風邪をひいて見舞いに行ったとき以来だ。
「それなら朝食はご一緒に食べられますか?」
問われて一瞬、考えて思い至る。
そうだ。私はフラウリアより起きるのが遅いだろうから、先にあいつに朝食を食べさせておいてくれと頼んでたのだった。
「そうだな……」
起きたからには一緒に食べるべきなのだろうが、しかし今すぐには食べられないな――そう思っていると、それを見通したかのようにデボラが言った。
「修道院では七時が朝食だと聞いていましたので、今日はそれに合わせて支度しています。フラウリア様のお仕事が始まりましたらもう少し早くしようかと思っていますが」
……七時か。本当は起床から一時間ぐらいは開けたいのだが、まぁ夕食みたいに重いものでもないし大丈夫だろう。
「それなら食べる」
「了解です」
そのまま居間に入ろうとして。
「ああ、ベリト様」
デボラに呼び止められた。振り返ると、デボラはどことなく意味深な笑みを浮かべている。
「私、こう見えて口は硬いんです」
「は?」
脈絡のない話題に、私は眉をひそめてしまう。
「ルナ様にベリト様はちゃんとご飯を食べているの、とか訊かれましたら答えますけれど、私的なことはいくらルナ様にでも話したことはありません。今の主人はベリト様ですからね。なのでご安心を」
デボラはそう言うだけ言って厨房のほうへと歩いて行った。
なにを言ってるんだあいつ……?
私も首を傾げながら居間の中に入る。
居間の机に置かれた新聞を手にして、ソファへと座った。そして新聞の一面を読み進めているうちにふと気づく。
そういやあいつ、朝食のパンも店で買わず自分で作っているから、朝来るの早いんだよな――と。
つまりは視ているということだ。自室に気配が二つあったことを。
「……!」
私は思わずソファの背もたれから起き上がる。それから立ち上がろうとして通路に気配を感じて動きを止めた。
フラウリアだ。あいつは居間の扉の前で少し立ち止まると、それから厨房のほうへと小走りに去って行った。あいつの性格からしてデボラへの朝の挨拶と、あとは朝食作りを手伝うとでも申し出るつもりだろう。
それならばいいかと思い、私は再びソファの背もたれに寄りかかった。
どうせデボラもフラウリアになら直接訊く。だからそれで誤解は解けるはずだ。
そう思って、私は少し引っかかりを感じた。
……誤解、なのだろうか。
昨夜、私は婚姻の誓いだなんて深い意味もなく、ようは冗談のようにそう言ったが、少なくともフラウリアは本気だった。
願ったりなにか任せにするのはやめて、本気であいつは私を幸せにするのだと考えている。
それは昨夜、あいつを抱きしめたことで伝わってきたことだ。
つまりそれはその、そういうことに、なるのだろうか。
そもそも、あいつは以前からも私のことを特別だと思っていた。
……そう。その気持ちが何に分類されるのか分からなくとも、純粋に特別だと感じてくれていたのだ。
それは私も、同じだ。
あいつは私にとっても特別だ。
特別な存在なのだ。
それはもう、否定しようがない。
だとしたら……誤解でもない気がする。
……いやいや、だからといってデボラにそう認識されるのはよくない。
いくらセルナに話さないと本人が断言しているとしても、あいつにそういう目で見られるのはなんか居心地が悪い。
とりあえずフラウリアは昨日のことを訊かれたら『風の音が怖いとベリト様に言ったらここで寝てもいいと言ってくださった』とかなんとか正直に答えるだろうから、それでひとまずデボラは納得するはずだ。あとはそのままそう思わせておけばいい。
そう結論づけて私は新聞に戻る。
それから微妙に集中できず、時折ぼんやりとしながらも新聞を読み進めていると、デボラが朝食だと呼びにきた。
食堂に行くと、すでにフラウリアは席についていた。
その姿を見て、思わず私は訊く。
「修道院に行く用事があるのか?」
「いえ。どうしてですか?」
「いや、服」
フラウリアは見習い修道服を着ていた。
「なにか変でしょうか」
自分の姿を検めるように見る。
「そうではなくて。ほかに持ってないのか」
「はい。まだ着られますから」
なんてことのないようにフラウリアは答える。
「……デボラ」
「はーい」
近くにいたデボラが軽い調子で返事をした。
「あとで市街地にでも行って私服を買ってやれ」
「了解ですー」
「え!」フラウリアが慌てる。「いえ! これで大丈夫ですから」
「いいから」
「ですが、まだ着られます」
「それだけでは洗濯もしづらいだろ」
「同じのがもう一着あります」
それもそうか。でないと修道院でも不便だったよな、と納得しかけて思い直す。
「だとしても、もう見習いではないだろ」
「もちろん、お仕事のときには着ません」
フラウリアは真剣な表情でそう返してくる。
こいつの心情を想像するに考えていることは一つ。もったいないだ。
一つでも着られるものがあるのならば、それを着古すまで着ればいい。まだ着られるものがあるのに新しいものを買うなんて贅沢の極みだと思っている。
貧しい壁区の生まれで孤児だったのだからそのように考える気持ちは分からなくもないが、今これを受け入れてしまってはこいつのことだ。本当に着られなくなるまでこれを着続けるだろう。
そうなると後々、ユイやセルナあたりになんか言われそうな気がする。
セルナに至っては『服ぐらい買ってあげなさいよ』とか絶対に言ってくる。そればかりは私も同意見だ。だからこそ今そう言っているのだが、ご覧の通りフラウリアが引き下がろうとしない。
こいつは真面目で律儀な性格故に、人の好意を素直に受け取れないところがある。特にお金が絡むことに関しては尚更に遠慮してしまう。
そんなフラウリアを納得させるには一つしかない。
「……家で」
そこで言葉を詰まらせた私を、フラウリアが不思議そうに見た。
そのまま伝えては角が立つので、私は上手い言い方を考える。
「それを着られると……仕事の延長みたいで、落ち着かない」
自分でもなんだその理由は、と思っている。だが、フラウリアに服を買わせるには、私が見習い修道着を見るのが嫌だと示したほうが早かった。
思惑通りとでも言うべきかフラウリアは、はっとすると申し訳なさそうに微笑んだ。
「ベリト様のお気持ちが休まらないのはよくないですね。分かりました」
納得してくれたことに内心で安堵していると、横から含み笑いが聞こえてきた。
それが誰か分かりきっていた私はそれを無視した。