第8回
前期が終わってから夏期講習まではまだ日があった。夏期講習は玉崎先生の英語構文の講義しか取らなかったので、後期が始まるまで自習がメインとなる。
そんなある日、自習室から家へと帰る途中、非常に不愉快な目にあった。
自習室は、休みに入る前しばしば利用していた。そのころは容易に座れたし、座れなかったのなら講義に使用されていない教室を勝手に使うまでのことだった。 しかし、前期が終わると途端に自習室は混み始め、入るのに塾生証を見せなければならなくなった。入れても教室の中にびっしりと机が置かれ、横の机との間隔は全くないうえ、前後の間隔もほとんどなく、十分に椅子を下げることもできない。
加えて、席取りを防止するために、席をむやみに離れられないようになっている。離れるときは塾生証を係りの人に提示、しかも離れていられるのは一〇分間しかない。一〇分経っても帰ってこなかったら荷物が取り除かれ、別の人にその場所を回される。実際に荷物が撤去されるところを目にしたことがある。これではおちおちお腹が痛くなっていられないとそれがしは思う。
それがしは胃腸が弱い。父が若いとき胃を切る手術をしたと言うから、胃腸が弱いのは遺伝なのかもしれない。おちおお腹が痛くなっていられないと考えるのは室内が異常に寒いからである。他の人は寒くないのだろうか。
寒くなってきたし、また、思うように捗らないので、それがしは荷物をまとめ自習室を出た。
建物の外に出ても寒気は取れない。気温は四〇度近くありそうなのに、まだ寒気がする。肌に触ると鳥肌が立っていて、当分汗も吹き出しそうにない。狭く寒いのに辟易し、教室を出たそれがしはふとブロイラーを連想した。狭苦しいケージの中、出荷できるほどに育つのが待たれる。感染症予防に薬が投与される。
教室の床や壁、机の白さがその想像に拍車をかける。病的な白さ。サナトリウム。サニタリー。
そんなことを頭の中でひねくり回していたところ、冒頭で述べた不愉快な出来事が起こった。
人通りのある歩道で、男が運転する自転車のカゴにすれ違いざま当たったのである。これだけなら別にそう不愉快な出来事ではない。すれ違うさい、他の人に当たることはよくある。謝られることも、また、謝ることもなく過ぎてゆく。
しかし、相手がそれで済まそうとはしなかった。すれ違いざまカゴに当たったすぐ後、それがしは振り向いた。大事がないか確認したのか、謝ろうと思ったのか、それとも、ねめつけるために振り向いたのか判然としない。
すぐに向こうがそれがしを罵倒し、そして「謝れ」と高圧的な態度に出た。「謝れ」と言われ下げる頭はない。悪いとすら思わなくなった。こんな輩に関わってもろくなことにはならないので、キッと睨みつけ、後は無視をして駅へ歩いた。
几帳面なことに、男は自転車を置いてそれがしの後を追ってきた。先ほどまでは気づかなかったが、もう一人男と一緒だ。
「おいこら、貴様、謝るのが筋だろう? え?」
人通りのある歩道を自転車に乗って走っている輩に、道徳面で非難されたくはない。むしろ交通弱者である歩行者、つまりそれがしの方に分があるのではないか。当然、謝るのは向こうだろう。そんな道理を説いても聞く耳を持っていそうにないので、無視をして立ち去ろうと思った。
しかし、「止まれよ」と言いながら、なおも追いかけてくる。しつこい奴だ。仕方なく立ち止まり、彼らと対峙する。
立ち止まったところがビルの壁面沿いだったので、後ろに回り込まれないように、それがしはその壁面を背にする。正面に一人、それがしとぶつかった方が立つ。行く先をふさぐように、もう一人はそれがしの右横に立った。正面の男は丈夫であるそれがしよりも背が低く、痩せぎすである。歳はそう変わらないだろう。男の格好はというと、上は黒革製のベストで、多数のスタッズが打ちつけられている。パンツも黒革製で、ジャラジャラと鎖やらが付いている。おまけに黒革のロングブーツを履いている。真夏にそんな恰好をして暑くはないのだろうか。胸元をはだけているので、その肋骨が浮いて見えそうな薄い胸と、首から下げた趣味の悪いシルバーアクセサリーが目につく。
一方、それがしの横に立っている男は、それがしよりも背が数センチほど高く、体格もなかなか良い。しかし、体つきから普段から鍛えているようには見えなかった。格好はというと、Tシャツにデニムという至って普通な感じだ。どうして、この二人が連れなのだろう、よく分からない。
体格や立ち位置から、どちらかと言うとそれがしは右横に立つ男を警戒した。心臓の鼓動が速まっている。汗が吹き出しそうになるのをはっきり感じた。
「ついて来い」
正面の男が居丈高に言う。どうせ人気のない場所に連れて行ってボコボコにするのが目的だろう。そんなところにみすみすついていく馬鹿がいるものか。
「嫌だ」
自分がどのような声を出しているのか分からない。怯えが声に現れていないだろうか、変にうわずった調子ではないだろうか。
同じような悶着を繰り返す。膠着状態となった。
「止しなさい」
見るに見かねたのだろう、二メートル近く離れたところに出入口のある喫茶店の善良そうな主人が言う。それで止めるぐらいなら、最初から因縁をふっかけてこないだろう。ありがたいが何の役にも立たない。
「眼鏡を取れ」
正面の男が言う。それがしはややうつむきながら眼鏡を外す。シャツの胸ポケットに入れるとともに視線を上げ、男と目を合わせる。
背はそれがしの方が高いので、自然と見下ろすような格好になる。肩に下げていたカバンもついでに下に置いた。殴られたら痛いだろうな、唇の端が切れるかな。痛いのは最初の一発だけ、痛いのは最初の一発だけ、と呪文のように口ずさむ。後はもう我を忘れて殴れば良い。痛いのは最初の一発だけ、痛いのは最初の一発だけ。
眼鏡を取ってからどれくらい経つかわからない。しかし、一向に殴る気配を見せない。殴る風を装えば、泣いて謝るとでも思ったのだろうか。阿呆らしい。臆病な奴だな、と自分のことを棚に上げて思う。
馬鹿馬鹿しくなってきた。胸のポケットから眼鏡を取り出し、かける。足元に置いていたカバンを元のように肩にかけた。
二人を無視し、家に帰るために駅構内へと向かう。しかし、二人もついてくる。殴るのなら先ほどのタイミングしかなかった。それを臆病ゆえに逃したと分からないのだろうか。
それがしの頭は冷静さを大分取り戻していた。逃さないと言うさもしい魂胆からか、それがしの両脇を固め、歩調を合わせる。盛んに因縁をつけてくるが今更相手にする気も起きない。
「勉強のしすぎで、狂ってんじゃないの?」
残念ながら、それがしは最近そんなに勉強していない。
このまま、パスケースを取り出して、改札を通ろうか。しかし、出したところを狙われてパスケースを奪われる可能性がある。塾生証も中に入っているので、身元が相手にばれてしまうだろう。それだけは避けたい。何をやるか知れたものではない。
いっそのこと、トイレに入ってケリをつけようか。それこそ相手の思うつぼだろう。
ではどうする?
とっさにそれがしはひらめいた。そうだ、交番を利用しよう。
駅構内にある交番はそれがしが今歩いている通路の右側にある。残り三メートルほどだ。
それが真横に来るタイミングを見計らって直角に曲がり、交番へ入る。
案の定ついてこなかった。知らぬふりをして二人は通り過ぎてゆく。そのさまは喜劇めいて滑稽である。ざまぁみろ、とそれがしは得意になる。一先ず、難が去ったので、それがしの態度は途端に大きくなる。交番から出てくるのをどこかで待ち構えている可能性は否定できない。しばらく時間を潰そう。
「どうしました?」
年のころは四〇代後半ぐらいの警察官が話しかけてくる。他にもう一人いる。こちらは比較的若い。それで、それがしは今までの経過をかいつまんで話した。あいつらと対峙していたときよりも声が上ずっているのが分かる。そのときの興奮や憤りが今になって出てきたのだろうか。
「歩道で自転車に乗っている奴が悪いんですよね。そう思いませんか?」
それがしは同意を求める。しかし、予想に反し同意は得られない。
「君ね、それぐらいで腹を立ててはいけないよ。つい最近でも、駅の構内で口論から殺人にまで発展した事件があったばかりなのだから」
それがしを諭す。それはそうかもしれないが腑に落ちない。
警察官と話していて、幾分落ち着きを取り戻した。声の調子も元に戻ってきた。時間潰しも十分だろう。
「どうもご迷惑をおかけしました」
一礼して交番を出る。
辺りをきょろきょろと見まわすが、あいつらの姿を確認できなかった。諦めたのだろうか。なんであんな奴らに時間を費やさなければならないのだ。
それがしがぶつかったことなど、どうでもよかったのだ。ただ鬱憤晴らしをしようと思っただけなのだ。腹が立つ。吹き出していた額の汗をようやく拭う。背中や脇にかいた汗が気持ち悪い。
家に帰り風呂に入ったとき、不意に思った。鬱憤晴らしをしたかったのはそれがしの方か。
翌日、経田にたまたま会ったのでその話をしたら、他人事だと思って笑っていた。その横には最近付き合い始めた彼女がいた。運動会の準備のときに仲良さそうに話していたので、それから発展したのだろう(有賀ではない、念のため)。
ついでに彼女のご機嫌も取っておいた。経田も彼女も負け犬の遠吠えのように感じたかもしれない。また、意図的にそう思わせるような話し方をした。
それにしても、経田はいつもいつの間にか彼女を作っている。澤井が経田のことを「呼吸するように女を口説く」と言っていたが、納得してしまう。自分から告白するようなタイプの人間には見えないが。




