第一曲 夜ニ彷徨ウ 4
「――ってえ。てえよぉ」
「るせえよ。手当てできねえだろうが」
シャツを破き、引き裂かれた腕にぐるぐると巻きつける。
巻きつけた布はすぐにぐっしょりと血に濡れていく。わめいている間は大丈夫かもしれないが、このままだと出血で失神するかもしれない。
「病院に行った方がいいんじゃね? 魔物にやられた傷だし――」
ナオが言った。ズボンのベルトに手をかけている。脱ごうかどうしようか迷っているようだ。小便の匂いがするが、笑えない。こっちだってちびりそうだった。
「……おれ、魔物になっちゃうの?」
アキの貌が泣きそうになった。
「なるかよ。ワクチン打ってんだ」
「でもよぉ――」
「わぁったよ。救急車呼ぶぞ」
タツのことも気にかかる。脈と呼吸は確認したが、地面に倒れたままぴくりともしない。
端末を取り出し、救急の回線にアクセスした。少し迷ったが、bDと入れる。by Demonの略だ。これで救急車だけでなくハンターも出動する。違法ブレードを始末する時間はないだろう。
すかさず送られてきたフォームに、
魔物のタイプ『不明』
特徴『人間型』
咬傷『無』
ケガの原因『爪』
患者の意識『一人有、一人無』
魔物化の徴候『無』
を入れて返す。
端末の画面が変わり、五分のカウントダウンが始まった。五分待て、という意味だ。
「……キィちゃん、どうしたかな」
アキが言った。
地べたに尻をつけている。腕を膝の上に乗せているが、出血が止まる様子は無い。
「知らねえよ」
上腕部を縛った布をさらにねじりながら応じた。
アキの貌が歪む。
男にしては細い顎のせいで、アキの貌は年齢よりも幼く見える。アキとキナが一緒にいると、子供がじゃれ合っているように見えた。
「ミッちゃんがあんなことしようと言うから」
「なんだよ。おれだけのせいか」
憮然と言い返す。
「……じゃないけどぉ」
「ないけど、なんだ。はっきり言えよ。おれのせいだって」
「……てぇよぉ」
泣きそうな貌でアキが言う。
本当に痛いのか、話を逸らそうとしたのかわからない。
子供のようなアキの貌を見つめ、息を吐いた。最低だ、と思った。アキに嫉妬した。キナが欲しかった。そのくせ、ひとりでキナに好きだと言えなかった。
今さらどうしようもない。
キナは離れていった。あの化け物の後を追っていったのだとわかった。
わかったけど、止めることはできなかった。
歯噛みしながら首を巡らして、ぎくり、と動きを止めた。
周囲は暗い。木立の向こう側に明かりがあるが、そのせいで、木立のこちら側はかえって闇に沈んでいる。
闇の中に金色の光が見えた。
双つ。
獣の眼だと悟った瞬間、喉の奥が鳴った。
悲鳴は呑み込んだが、潰れたような声を洩らすのまでは止められなかった。
アキとナオが貌を上げ、視線の先を追って悲鳴を上げた。
獣の眼が細くなった。
明らかな敵意を感じて、背筋が冷える。
木立の陰から、黒い影が現れる。闇を象ったような大型の肉食獣だった。圧倒的な迫力は見ただけで全身が震える。
黒い豹に見えた。見えた、というのは、輪郭が微妙に歪んでいたからだ。黒豹の肩から背中にかけて、異様に肉が盛り上がっている。
「ナオ。アキを連れて逃げろ」
端末をナオに向かって投げた。カウントダウンはまだ三分を切っていない。
ハンターの到着は間に合わない。
ベルトの鞘から電磁ブレードを抜いた。違法品の青白い光は、手に入れた時の高揚感をかけらももたらしてはくれなかった。どれほどの武器も、使い手が素人では意味が無い。先ほどそれを思い知らされた。
あの人型の魔物は、赤子の手をひねるようにタツを叩きのめし、アキの腕を切り裂いた。電磁ブレードはあいつの身体に掠りもしなかった。
その瞬間、あいつの眼も金色だったことを思い出した。
まさか、これ。あの魔物なのか。
じゃあ、キナはどうなった。
喰われた――のか。
血のように赤い口が開き、ぞっとするような牙が覗いた。
「――くそっ」
身体の前で電磁ブレードを構えた。
金色の眼が細くなる。笑われた、と悟った。ちっぽけなプライドが脳の奥で火を放ったが、足は意に反して動こうとしない。
怖いのだ。
身体は正直だ。ブレードを握った手は小刻みに震え、青白い光が闇に揺れる。
「……う……う」
声は、自分の口からではなかった。
地面に倒れていたタツからだった。
黒豹の貌がタツに向いた。タツの身体が動いている。起き上がろうとしている。
こんな時に――
「うぅぅおおおおおおおお」
声をあげた。肚の底から吠えた。子供の頃、少しだけ通った空手道場で習った発声法。
黒豹の貌が弾かれたようにこちらに向いた。
動け。足。
電磁ブレードごと突っ込んだ。
衝撃と同時に、熱い炎が胸を引き裂いたような気がした。
手から弾け飛んだブレードが背後のアスファルトでからからと音をたてて転がる。
血は、一瞬遅れて噴き上がった。
胸から天に向かって。
黒豹の手が斜め下から振り上げられた、というのは後から知った。
「が……は……っ」
貌が上を向いた。どんよりと濁った空。
その空が急速に遠のいていく。
「ミッちゃん――」
アキの叫び声。馬鹿。声をたてるな。
眼の端で、黒豹の身体が動くのが見えた。
「……逃……げ」
地面に背中が落ちる。黒豹の腹が見えた。黒豹が跳んだのだ。アキに向かったと知った。
「待……」
腕を伸ばそうとしたが、動かなかった。
アキの悲鳴が響く。
肉がぶつかり合う音。アキがやられたと思った。
だが、転がったのは、黒豹の身体だった。
何が起きたかわからない。
黒豹は転がるや否や、即座に起き上がった。
攻撃の意思を示して牙を剝き出し、金色の眼を炎のように燃やす。
激しい殺意に喉が干上がる。恐怖からだ。
「何をとち狂っているのさ」
若い男の声がした。どこかで聴いた声だ。
「人間を殺したらハンターに狩られるよ」
rrrrrrr――
黒豹の喉が鳴る。
「ハンターなんて知ったことじゃないってのは同感だけどね」
視界の中に、男の後ろ姿が入った。黒色のダメージジーンズ。左足の方は膝までしか丈が無い。左右アンバランスなデザイン。上半身は袖の無いフード付きのパーカー。
フードは被っていない。
黒い髪。頭頂部に金色の髪が見える。
髪の色に見覚えがあった。先ほどの魔物だ。
じゃあ、黒豹は別の魔物なのか――?
「キ……ナ……は――?」
男の貌が一瞬だけ背後に向いた。
「ったく。大事ならレイプの真似事なんてするなよ」
呆れられたような口調だが、反論できない。
男が身を屈めた。両足を開き、片手を地面につける。
「こっちも人間がどうなろうと興味無いけどね。関わった以上、見殺しにするのは寝覚めが悪い」
黒豹に向いた男の貌はこちらからは見えない。
だが、対峙する黒豹の足の毛が逆立つのが見えた。
grrrrrrr――
威嚇するような声は、黒豹からだったのか。
ざあ、と黒い影が広がった。
黒豹の背中で巨大な翼が広がった。
輪郭が歪だったのは翼を畳んでいたからか。黒豹の身体が宙に舞う。
同時に男の身体が跳んだ。
薄れゆく視界の中で、二体の黒豹が絡み合いながら、互いに口を開き合っているのを見たような気がした。
意識が急速に遠くなっていく。
その耳に、サイレンの音が届いた。
ようやく救急車とハンターが到着したらしい。
「……お……せぇ……よ」
「――ミッちゃん」
甲高い声はアキか。キナのような気がしたのは願望だろうか。
確かめる前に、ミミヅカの意識は完全に途切れた。