第三曲 夜ニ踊レ 4
「おまえの目的は?」
いつの間にか、男の眼が真っ直ぐに見ていた。
闇色の眼に息を呑む。
「目的って何さ。やだなぁ。僕はあんたの彼女に拾われた猫だよ」
「なら、そういうことにしておこう」
男は立ち上がり、酒のボトルを手にした。
そのまま寝室に向かおうとする。
きっと朝まで、少女の傍で寝ないでいるのだろう。
ここに来てから、この男がまともに寝るのを見たことがない。
「ねえ――」
声をかけると、男が足を止めた。貌だけ向けてくる。
「力を貸して欲しいと言ったら、たすけてくれるの」
「話してみろ」
顎を上げて、男が言った。
石造りの家だった。
白い壁には蔦が這い、掌のような葉が茂っていた。
ドアは固く閉ざされ、他者の来訪を拒絶していた。
窓は暗く、中を窺うこともできない。
週に一度、食糧や医薬品と思しきものが搬入される。その時だけドアが開くが、住人は姿を現さず、肩をすくめた業者が立ち去れば、ドアは閉まり、オートロックの音だけが響く。
外観は古びているが、中身は違うようだ。
巧妙に隠された監視カメラは最新型だった。
誰が住んでいるのか好奇心が疼いたが、侵入してまで確かめようとは思わなかった。
どうせ人間嫌いの偏屈な老人でも住んでいるに違いない。そう決めつけた後は興味を失った。
誰も出てこない家なら、風景と変わらない。
最初は警戒もしたが、すぐに忘れた。
家の前には、庭が広がっていた。
主が家から出てこないのだから手入れはされていなかったが、その分自然に近かった。
名前も知らない草が地面を埋め尽くし、草に隠れるように池があった。
水草の間を魚が泳ぎ、きらきらと鱗が光っていた。
池の縁には蛙が潜み、池に近づくカゲロウを狙っていたりした。
草の陰からネズミが現れ、時に蛇に遭遇しては、ぢ、と啼く。
生き物たちの小さな世界がそこにあった。
そのことを、家の主が知っていたかと言うと、たぶん、知らなかっただろう。
外部の人間達は言うまでもない。
敷地は高い石塀に囲われ、外からの視線を完全にシャットアウトしていたからだ。
知っていたのは、だから、僕達のような猫だけだった。
門扉や塀のセキュリティは完璧だったが、地面を掘れば、猫の侵入路くらい容易に作ることが出来る。
僕とエン。それに普通の猫達にとって、そこは絶好の遊び場だった。
虫を追い、花の匂いを嗅ぎ、全身に草の実をつけて、僕達ははしゃぎまわった。
疲れれば、木立の陰で、好きなだけ眠った。
楽園のような庭だった。
ある日、窓のひとつが開いていた。
初めて見る光景だった。
白いカーテンが誘うように揺れていた。
蔦を足掛かりに、僕達は壁を登った。
張り出した出窓から中を覗き込むと、医療用カプセルのガラスケース越しに、人形のような少女と眼が合った。
蝋よりも白い肌。
落ち窪んだ眼窩。
唇は青黒く、明らかな死の匂いに僕達は後退しかけたが――
――待って。
少女の声が止めた。
機械の合成ヴォイスだった。細い首に声帯マイクが貼られていた。肉声は出せないということは、後から知った。
――お願い。そばにいて。
伸ばしてきた腕は、ぞっとするほど細かった。
小さな手はガラスケースに遮られたが、僕とエン以外の猫達は少女が動いたことで逃げて行った。
猫としては当然の反応だ。
少女は僕達も逃げると思ったのだろう。今にも泣きだしそうな、それでいて、どこか諦めたような貌をした。
僕とエンは貌を見合わせ、どちらからともなく、カプセルの上に乗った。
ここにいるよ、と尻尾を揺らすと、透明な酸素マスクの下で、少女の唇に笑みが浮いた。
人間は好きじゃないが、子供を泣かす趣味は無かった。
少女は四歳くらいか、それよりも幼く見えた。カプセルの中で、猫のぬいぐるみを抱いていた。少女の貌は覚えていないが、猫好きを泣かしたくないな、と思ったのを覚えている。
それでも、僕の場合は気まぐれだった。
だからすぐに飽きてしまったのだけど。
エンは少女と気が合ったようだった。
――猫さん。どこから来たの?
――猫なのに、どうして翼があるの?
――猫は死んでも七回生き返るってほんと?
少女の他愛ない質問にもひとつひとつ答えていた。
僕と違って、エンは猫の姿でも人間の言葉が喋れた。会話が成立することに少女は歓喜し、エンと少女の会話はますます弾んだ。
僕は息を吐いて退屈を表明し、カプセルから離れた。行こうよ、と言うように尻尾を揺らしたが、エンは動かなかった。
翌日も。その翌日も。
エンは窓が開くと、少女の部屋に向かった。
少女が疲れて眠るまで少女の相手をし、時には少女の部屋に泊まるほどだった。
――少し入れ込み過ぎじゃないの。
面白くない、と言うように、僕は鼻を鳴らした。
――妬いてる?
――妬いてるけどね。
――正直だね。そういうとこ好きだよ。
僕の鼻を舐めて、エンは笑った。
――おまえが傷つくのを見たくない。
そう言うと、エンの貌から笑みが消えた。
エンもわかっていたのだ。少女がもう長くないことを。
頑なに閉ざされていた窓が開いたのは、少女をケアしていた何者かが無菌治療を諦めたからに他ならない。
――魔物の血から薬ができるらしいね。
ぽつり、とエンが言った。僕は耳を動かした。
――誰から聞いたの。それ。
エンは答えなかった。




