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第三曲  夜ニ踊レ 2

 

 激しい咳の音が何度も聴こえる。

 しばらくして水の流れる音が響いた。

 それも止み、前髪だけを濡らした男が洗面所から現れた。

 首にタオルを掛け、タオルの先で口を拭いている。

 リビングを通ったが、何も言わず、キッチンスペースに入っていった。リビングとキッチンはカウンターで仕切られているだけだ。

 冷蔵庫のドアが開く音。

 キッチンから酒のボトルとグラスを手にして、リビングに戻って来る。

 無言のまま、対面のソファに坐った。視線は向けてこない。

 テーブルに置いたグラスに、とろりとした透明な液体を注ぐ。

 グラスに白い霜がついている。グラスまで冷やしてあったようだ。

 男はひと息で飲み干し、二杯目を注いだ。グラスを口許に運ぶ。

「僕も欲しいな」

「子供が飲む物じゃない」

「魔物のくせに人間みたいなこと言うね」

 初めて男の視線が動いた。

 何が琴線に触れたのか。

 少しだけ、瞳孔が開いた。

「言っとくけど、僕、子供じゃないからね。あんたとそうは変わらないはずだよ」

 男の放つ威圧感は桁外れだが、年齢的には十八、九だろう。

 せいぜい一歳か二歳の差だ。

 その抗弁が効いたのか。

 男はグラスを置いて立ち上がった。

 戻って来た時には、氷を入れたグラスを手にしていた。

 冷やしたグラスが無かったから、代わりに氷を入れてきたようだ。わりとまめな男だ。

 グラスをテーブルに置き、酒を注ぐ。どうぞ、とは言わなかったが、こちらの要望に応えてくれたのは間違いない。

 男が自分のグラスを手にするのを見て、グラスに手を伸ばした。

 くん、と鼻を鳴らす。

 匂いはあまりきつくない。ほのかに甘い匂い。水のように無色透明。何の酒かはわからない。

 男のように、くいっ、と飲んで、眼を剥いた。

 飲み込んだ瞬間、全身が、ぼっ、と熱くなったからだ。

 殴られた時のように、頭の奥が、くら、とする。

「な、何これ。ヴ……ォト? カ? え? ウォッカ?」

 ボトルのラベルを読んで、咳き込んだ。

「なんでそんな平然と。うわ。胃が焼ける」

 喉を押さえて、舌を出した。

 男が立ち上がった。

 キッチンで水を汲んで戻ってくる。手渡されたそれを喉に流し込んだ。

「はあ。あんた、平気なの?」

「アルコールも毒も体内に入った瞬間に無毒化される」

「それって、酒を飲む意味無いんじゃないの?」

 男は肩をすくめ、ソファに坐ると、再び飲み始めた。水のように飲む。

 上半身は何も着ていない。一九〇に近い長身。しなやかな筋肉。猫科の大形肉食獣を連想するが、同族の匂いはしない。それよりも、死の匂いが気になった。

「あんた、どこか悪いの?」

 グラスを傾けたまま、男が視線を向けてくる。

「死相が出てるよ」

 男の眼が細くなった。ぞく、と全身に怖気が走る。

「眼だけで威圧すんの、やめてくれる?」

 男は視線を逸らした。テーブルにグラスを置き、酒のボトルに手を伸ばした。視線を逸らしたまま、グラスに酒を注ぐ。

 何だかんだとこちらの要求に応えてくれる。根は寛大なのかもしれない。あれ以来、猫の姿であれば、寝室に入っても文句を言わない。少女が猫を抱いて眠るのも、少女の好きにさせている。

 普通なら考えられない。

 自分の女に別のオスの匂いがついても平気なのか。

 男は視線を合わせないまま、グラスを口にしている。


「種って何?」


 男が動きを止めた。

「昼間、あの子に言っていたじゃない。精気を吸って種を作れ、って。あれ、何?」

 漆黒の眼が睨みつけてくる。全身の毛が逆立った。

「だ……から。あんたの眼は怖いんだってば」

 小さく息を吐き、男はリビングの壁に眼を向けた。

 壁の向こう側は少女の眠る寝室だ。

「シアは吸精鬼だ。男から精気を吸って、種を作る。だが、いくら言っても作ろうとしない」

「作らなければどうかなるの?」

「枯れて終わる」

「死ぬってこと?」

「ああ。何を考えているのかわからない。種を作れば、もう一度生まれてこられるのに」

「あんたと一緒に死のうとしてんじゃないの?」

「シアはおれの体のことを知らない」

「何言ってんの。あれだけあんたの傍にいて気づかないわけないじゃない」

「知ったことをおれに隠していられるほどシアの精神年齢は高くない」

「あんたさあ、女を甘く見てるよ。幼くても女は女だよ。男に嘘をついて、それを完璧に隠し通すものさ。男の腕の中でだってね」

「……」

 男の眼が横目で睨んできた。喉笛を冷たい手で掴まれたような気がしたが、男は無言で手の中のグラスに視線を落とした。すでに白い霜は消え、グラスの表面には水滴が浮いている。

 黙り込んだのは思い当たることがあったのかもしれない。

「……シアは一緒に死のうとは考えない」

 水滴の幾つかが流れ落ちる頃、低い声で男が言った。

「あのね、認めたくない気持ちはわかるけどさ――」

「ひとりで先に死のうと考える」

「――」

 男の手の中で、音をたててグラスが砕けた。こぼれた液体が男の手を濡らし、ガラスのかけらがテーブルに広がった。

 次の瞬間、ガラスのかけらも液体も、最初からそこには存在しなかったかのように消えていた。クリアなテーブルには塵ひとつ無く、ただ男の貌と闇のような眼を映していた。


 ――半径五キロ圏内がきれいさっぱり消えてなくなっているわ。



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