第一曲 夜ニ彷徨ウ 1
第一曲 夜ニ彷徨ウ
濃密な空気がどろりと動かない。
ビルの造る都市の迷路はもう何年も空気が循環していないような気がする。
汚れた壁は饐えた匂いを放ち、路地のどこかで死体が転がっていても、きっと誰も気づかないに違いない。
時おりやけに太ったネズミが現れ、崩れたビルの隙間に消えていく。
Dウィルスが発生した際、ネズミや蝙蝠、鳥、果ては犬や猫まで、キャリアと見なされ駆除されたが、数年を経ずして、以前の生息数を遥かに超えたネズミや野良の犬猫が、都市で繁殖している。
ワクチンが開発されても、ウィルスは変異していくものだ。
いずれ、ワクチンの効かないウィルスが発生する。
その時、人間はどうするだろうか。
かつて、『ハロウィンの狂気』で感染者を殺害したように、再び、感染者と世界中の野生動物を殺し尽くそうとするのだろうか。
――人間はね。幼児のまま力だけ大人になっちゃった生き物だよ。
あいつはそんなことを言っていた。
――近視眼的で、わがままで、気に入らないものは仲間にしない。
『ハロウィンの狂気』は仲間にしないというレベルじゃなかったと思う。
どれほどの魔物が殺されたか計り知れない。
姿形がどれほど変わろうと、魔物がウィルスの感染者だということは、みんな知っていたはずだ。知りながら、殺したのだ。
自分だけがたすかるために。
感染者を切り捨て、感染者に接触したあらゆるものが殺された。
病院の医師が。感染者の家族が。
生徒が感染者になった学校は押し寄せる暴徒に破壊された。村も。街も。
気がつけば、魔物よりも人間の方が殺されていた。
あれをまた繰り返すのか。
人間だけでなく、ありとあらゆる生き物を。
ウィルスの生息しそうな生命体を、全て地上から消し去ろうとするような。
あのパニックヒステリーと呼ぶには、あまりにも残虐な、破滅的な『狂気』の嵐を。
繰り返すのだろうか。
かつて、野生動物の宝庫と呼ばれた密林はすでに存在しない。
何十発、何百発のナパーム弾が撃ち込まれたのだ。
地球の平均気温は、そのせいで、3℃跳ね上がったという。
――自分で自分の首を絞めるような行為だよね。
まったくだ。
――人間はいつか自滅するだろうね。他の生き物も道連れに。
その時は、猫は除外してもらいたいと思う。
――くくく。猫だけたすかりたいって?
あいつはそう言って笑った。
――人間の発想と同じだよ。それ。
その言葉に、軽く舌を鳴らした。
人間なんて大嫌いだ。同じにされただけでも腹が立つ。
明かりの無い路地を、特に目的も無く彷徨い歩く。
周囲は暗いが、完全な闇ではない。見上げれば、両側のビルの形に切り取られた方形の空が灰色に近い。月が出ているのだろう。月は見えないが、月の光が空に広がっている。
前方がやけに明るい。
ビルが途切れている。
月の光が落ちていた。
猫の声。
何匹もの猫が群がっている。
月の光に照らされて、白い少女が立っていた。
胸に猫を抱いている。
白いスカートが揺れていた。
誰だろう。
少女が貌を上げる。
白い貌。
次の瞬間、少女の姿は消えていた。
少女の胸に抱かれていた猫が、ふわり、と地面に着地する。
一瞬不思議そうな貌をしたが、他の猫達と一緒に月に向かって啼いた。
みぃやああああ――
仲間を呼ぶ声だった。