姉の話2
先守会計事務所、と書かれた看板の建物の扉を僕は開いていた。
建物内にある机は十個。八つの机は向かい合わせに並べられており、一つだけ大きな机が他の机を見守るような位置にある。最後の一つはリラクゼーションスペースに配置されている。その傍にはソファー、新聞、テレビが揃っていた。
出勤しているのは五人。八つの机のうち半分の主達と、大きな机の主がそこにはいる。
ワイシャツにスラックスの男が、うんざりとした表情で来客に説明をしている。対策会員の六角堂大輔だ。普段は粗野なこの男が、丁寧に客の相手をしている姿に僕は少しだけ滑稽さを感じた。
「だから、あなたのお子さんをサッカーの道に進ませることは出来ません。潜在能力ランクD相当なんですよ? お茶の間のテレビで鳥みたいに飛んでボールを蹴る少年が映ったらどうなります。世間が引っくり返りますよ」
「けど、うちの子はサッカーの才能があるんです。それを諦めろだなんて、可哀想で」
来客は、三十代も半ばといった感じの女性だ。
「結婚した時にはわかっていたことでしょう。貴女達の組み合わせだと高確率で特別な才能を持った子供が生まれると。それを望んだのは貴女と旦那さんだ。後からルールを変えろと食いつかれてもこっちは困るんですよ」
どうやら揉めているようだ。
女が必死に懇願しているが、男は少しも動じた様子はない。
机についている他の人間達は、苦い顔をしている。
表向きの肩書きはなんであれ、ここは特異能力対策会の支部だ。全ての特異能力者の管理を目標とするこの組織には、戦い以外の相談やトラブルもたびたび持ち込まれるのである。
「やあ、司」
背後から声をかけられて、僕は振り返った。
顔なじみの対策会員、桐生涼子がそこにいた。
「ちょっとここじゃ落ち着かないから、外に行こうか」
頷いて、僕は涼子と共に外に出る。
「どうしたのー? 給金日はもっと先じゃなかったっけ」
僕は、大学内の見回りという名目で対策会から給金が発生している。その他にも、特異能力者というだけで配布される金がある。それらが僕の主な収入源だ。
「いえ、ちょっと気になったことがあって」
事情を聞いて、涼子は難しい表情になった。
「君のお姉さんは死んだよ。現場に残った血の量からも、それは明らかだ」
「ええ、それは、わかってはいるんですが……」
「そっくりさんに会った、じゃいけないのかな?」
「そうですねえ」
「もっとも、私も気になるけれどね。そのそっくりさん」
涼子は苦笑する。彼女は、僕の姉の戦友なのだ。
「私のほうでも調べておくよ、その話」
涼子はそう言って、僕の肩を叩いた。そして、悪戯をする子供のように微笑んだ。
「さて、せっかく来たんだし、格闘技能が衰えてないかちょっと勝負してみようじゃない」
「涼子さんを相手にするのは流石に分が悪いと思います」
涼子はランクDでありながらも、抜群の格闘技能によってそれを補っている人間だ。それを相手にして傷だらけにならない自信が僕にはない。
「なーに、練習よ、練習」
涼子はもう、やる気満々のようだった。
背後の建物の中からは、女性のヒステリックな声が響いている。
前には、涼子が立っている。
僕は観念して、拳を握り締めた。
「能力、なしですよ?」
「うん。けど勿体無いね。あんた、現役の人間とさしでやりあえるんだから、他の人なら対策会員に勧誘するところだわ」
「……考えておきます」
特異能力者の家系に生まれた人間は、特異能力対策会への登録を義務とされている。その中でも二種類の人種がいて、実働部隊として対策会の手足として働くことを生業とするのが対策会員。普段は学生などの一般人としての生活を送り、出来る範囲での協力をするのが協力員。僕や春日は後者だった。
「考えなくて良いのよ。貴方は、守られる側にいれば良いの」
「なら、なんで勝負を……?」
「気分転換と、いざという時の自己防衛能力が残ってるかのチェックかなー」
そんな理由で殴られていてはたまらない、と僕は思う。
僕と涼子は、距離をおいて向かい合った。互いに、己の拳を握り締めながら。
静岡剛の娘が失踪したのは、五年前のことだった。
理由は些細な事が原因の喧嘩だった。堪りかねたことがあったのか、彼女は実家を出て行ってしまった。
二十歳を超えた娘だ。住む場所を選ぶ自由がある。嫁に対しても、剛はその意見を覆さなかった。
ただ、心の中に小さな針が刺さったような痛みがあった。
それから、剛は痛みと共に日常を送り続けている。駅ですれ違う女性を、何度娘と見間違えたことだろう。本心では、剛は娘が気になって仕方がなかった。
今日も、駅の改札を抜けて剛は家への暗い夜道を歩く。
嫁への土産でも買おうと、明るい繁華街を歩いている時のことだった。
娘と後姿がそっくりな女性が、見えた気がした。
剛は表情が強張るのを感じたが、すぐに自身の見たものを否定しようとした。
また、ただの見間違いだ。落胆するのは自分なのだ、と。
しかし、その女性は娘が家を出た時と同じ髪形をし、同じ背格好をしていた。
思わず、剛はその後をついて歩き始めた。
早足で歩いて声をかけようとするのだが、女性も早足になって距離が縮まらない。
気がつくと、人気のない廃工場の前に剛はやって来ていた。
工場の扉が、僅かに開いている。暗闇の中、その少し開いた扉は地獄への扉のような不気味さがあった。
迷いながら、剛はその扉の中に入って行った。
月明かりが、おぼろげに室内を照らしている。機材も残っていない、ただ木箱がいくつか転がっているだけの廃墟だった。
「遥、いるのか……?」
娘の名前を呼ぶ剛の声が、暗い廃工場の中に乱反射した。
廃工場の中央の電灯が、点いた。一人の女性の姿が、浮かび上がった。
「父さん……」
「遥!」
剛は、遥かに掴みかかっていた。
「何をしていたんだ、今まで。母さんが、どれだけ心配していたと」
自分も心配していた。そう言えないのが、剛の弱さだ。
遥は俯いていて、表情は見えない。
「ごめんなさい、お父さん。反省してます」
「いや、謝罪は良い。まず、母さんのところに行こう。何か美味しいものでも食べよう。さあ、おいで」
剛が手を引くが、遥は動かない。
「行けないの」
「なんでだ。なんの不都合がある。あこは、何があろうとお前の家だ。お前の帰る場所だ」
遥はしばらく俯いていたが、そのうち顔を上げて、切り出した
「厄介なところから、借金をしちゃったの」
剛は、体が硬直するのを感じた。
「わ、なにその目の青痣。隈みたい」
夕方の大学で会ったとたんに、春日は僕の顔を見て言った。
「対策会の人間に実技訓練を受けさせてもらってな。容赦なく一発貰った」
「凄い痛そう。ワイシャツの男の人?」
「大輔さんじゃないよ。女の人」
「ふーん。女の人に負けちゃったんだ」
「相手は実働部隊だぞ。善戦したと言ってくれ」
「友達が多くて楽しそうだねえ、司くんは」
春日はそう言って、楽しげに微笑む。
本当に友達が多いのは春日だ、と僕は思う。そして同時に、僕に学校で友達が出来たのも春日のおかげだ。
高校時代、僕は他人との間に壁を作る子供だった。それを打ち砕いたのが、春日だ。
同期の親睦を深める食事会で、春日は僕に一発芸を強要した。そして、それが外れてもフォローしてくれた。あれが、大学の友達と打ち解けるきっかけになったのだ。
「で、ねえ。そっくりさん探し、行こうよ」
「……本気か?」
「本気」
「今から?」
「今から。前に見かけたのが、それぐらいの時間帯だったから」
春日は目を輝かせている。
姉のそっくりさんと僕を会わせて彼女は何をしたいのだろう。
しかし、姉のそっくりさんがいる、という事実が、気にならないわけではなかった。
一度、僕達は僕のマンションに入った。
ダイニングとキッチンの他に、リビングと部屋二つが着いている、一人暮らしをするには大きなマンションだ。
姉の部屋に入り、机の上の電話帳を開く。
「相変わらずお姉さんの部屋、そのまんまなんだね」
春日が覗き込んで、どこか切なげに聞く。
哀れまれているようで、僕は部屋の電話の受話器を取りながら慌てて振り返った。
「面倒臭くて片付けてないだけだ。他人の荷物を勝手に漁る奴はいないだろう?」
「まあ、そういう感覚もわかるけどさ。部屋の維持費大変じゃない?」
「住み慣れた我が家だから移り辛いんだよ」
適当に言い訳をしながら、僕は姉の妹に電話をした。
聞くことは二つ。最近この近辺に訪れたか。貴女以外に姉には姉妹はいるか。
どちらも、答えはノーだった。
「それより、たまには家に顔をだしなよ、お兄ちゃん」
からかうように、姉の妹はそう言った。