プロローグ
それは桜の花びらが散り、緑色の葉が町のあちこちに生い茂った頃だった。
空に輝くは満月。おぼろげな月明かりで、向かい合った彼女の顔が、血に塗れているのが見えた。その表情に浮かぶのは、恍惚としたような微笑顔だ。
血を好んでいるかのようだ。僕は背筋が寒くなるのを感じながらも、彼女を気遣うことにした。
僕は誘拐された彼女の救出作戦に関わった協力員だった。彼女をこの手に取り戻したことから、メンタルケアにも手を伸ばそうと考えたのだ。
「大丈夫かい?」
訊ねるが、彼女はそれを聞いていないかのように僕の表情を見つめて微笑んでいる。
その唇が、緩やかに動いた。
「やっと、会えた」
万感の思いを込めたような口調に、僕は戸惑うしかない。
しばらくしてある単語に思い至った。彼女が誘拐された理由を表すもっとも適当な肩書き。予知者に。
「私は、立野栞。よろしくね、椎名司くん」
紹介もしてない僕の名前を、すらすらと彼女の口は紡いでいった。
「流石は予知能力者と言ったところか」
僕は苦笑して、丸い月に視線を逸らした。
「対策会の人達が貴方を迎えに来るまでの付き合いになりますが、よろしくお願いします」
「ううん」
彼女は悪戯っぽく笑って、首を横に振った。
「長い付き合いになると思うよ。司くんとの夢は、何度も見たから」
それが、彼女と僕との付き合いの始まりだった。
長いようで短かった、彼女と一緒にいた時間。
その始まりの記憶は、満月の光と、血の匂いに溢れていた。
「それにしても」
と彼女は言葉を続けた。
「服も顔も血に濡れちゃった。シャワー浴びれるのはいつかなあ」
それは、未来を見通す予知能力者らしからぬ情けない声と言葉だった。
「もうしばらくお待ちを」
僕は慇懃にそう答えた。
相手はVIPだ。無下に扱うことは出来ない。短い付き合いだ、礼の限りを尽くそう。僕の頭にあるのは、そんな考えだった。
僕は心のどこかで、予知能力を侮っていたのかもしれない。
彼女は言ったのだ。長い付き合いになる、と。