第一章 至福③
コール6回目で、椎野ヒカリは受話器を取った。
「遅いよ」
いきなりの怒号に眉間に皺を寄せるが、その要因である乃ノ美に見える由もない。
「こんな時間に、なんだよ」
「随分じゃない? お友達、いない身分のくせして、生意気」
「用がないなら、切るぞ」
「そんな無下にして良いの?」
「どういう意味だよ」
「あなた、この近くにいるでしょ」
「何をバカなことを」
「あら、私にそんな態度を取っていいのかしら? 良いから出て来なさい」
「チッ」
「やっぱり居たじゃない」
野暮ったい格好で立つヒカリを遠目に見て、乃ノ美はふっと鼻で笑う。
煌びやかな世界とは段違いの、現実の世界がそこにはあった。
建物の陰から現れたヒカリの元へ、乃ノ美はヒールの音を鳴らし近づいて行くと耳元で囁く。
顔を少し歪め、ヒカリは乃ノ美の後に続く。
椎野ヒカリは、乃ノ美たちと同じ高校の同級生である。影が薄く、あまり目立つことがなかった存在だった。あんなことさえなければ、この二人に繋がりは生まれなかっただろう。
お互いが二年生に上がったばかりの時だった。
運が悪かったのか良かったのか、世梨花と同じクラスになった乃ノ美は、いつものように、昼食を中庭のベンチで一緒に摂っていた。
どういうわけか、世梨花は昼食の時だけは人が群がってくるのを嫌う。
一度だけ、その理由を聞いたことがある。
「私ね、人に食べている姿、見られるのあまり好きじゃないの。それに、こんな風にリラックスできないと思うんだよね」
その時、意外だと思ったのでよく覚えている。
人が好きで、自分が好きで仕方がない人だと思っていた、世梨花の一面だった気がする。
しかし、少しずつ乃ノ美の中に芽生えていた、憎悪はそれすら、大口開けて食べられないからだろうと、あっさり解釈をかえてしまっていた。
その日も、一緒に食べようと誘うクラスメイトを何人か断って、二人でお弁当を開いて座っていた。
乃ノ美にとっては、ありがた迷惑な話だと思いつつ、世梨花の話に適当に頷きを見せていると、誰かに見られているような気がして、ふと見上げた校舎で、乱射する光を見つけたのだ。
おしゃべりに夢中になっている世梨花は、まったく気が付いていな様子だったが、乃ノ美は目を凝らし、それがヒカリが構えるカメラレンズによるものと突き止めるまで、そう時間を要しなかった。
もう身を隠してしまっている相手に、乃ノ美は心当たりがあった。
数回、視線を感じる時があった。決まって、その先にヒカリの姿がちらついていた。今ので乃ノ美は確信が持てたのだ。
その放課後、美術室に居るヒカリを呼び出し、乃ノ美は詰め寄った。
「あんたみたいな暗い男、世梨花が相手にするはずがないでしょ」
強気で言う乃ノ美に、ヒカリはただひたすら、困った表情で見つめ返す。
そろそろ部活動も終わろうとしているらしく、校庭から聞こえていた威勢の良い掛け声がなくなり、吹部の間の抜けた音が、時折聞こえるだけになっていた。
「良いわ。私、良い人だから、世梨花の情報を流してあげる。その代わり」
そこまで言って、乃ノ美は意地悪い目で、ヒカリを見る。
「私の召使になりなさい」
どうしてそんな発想が出て来たのか、自分でも理解し難いが、ヒカリはおとなしくそれに応じ、携帯番号を交換し合う。
それから、何となく二人の関係は続いている。
二人は会話もなく、まばらな人影に交じり、電車を待つ。
呼びだしたところで何をするでもなく、こうして人畜無害な時間を執り止めなく過ごす。
電車に乗り込み、黙って二人並んで座る。
傍からどう見えるんだろう?
ふと思い立った乃ノ美が、チラリとヒカリを盗み見る。
ヒカリは音楽を聞いているようで、耳にイヤホンを当て、目を閉じていた。
その仕草が、妙に許せなくなった乃ノ美は、すくっと立ち上がりドアの方へ身を移す。その気配に気が付いた、ヒカリの視線が追いかける。
乃ノ美は、こんな自分が嫌いだった。
どこに居ても目立たず、空気みたいな存在。世梨花のように居るだけで、その場が華やぐ、そんな生き方に憧れた時もあった。
流れる景色に重なるように自分の顔が映る。
何の努力もいらない世梨花が、今ではただ憎い。
学校では優等生で、社会人になってもそれは変わらず、むしろ信頼度は増す一方。極めつけが、当然のように有り余る幸福な結婚だ。
無言で隣に立つヒカリが映り出され、乃ノ美はひとたび黒い塊のようなものが、自分の中に帯びて行くのを隠そうともせず、開くドアを待ちきれないように降りたつ。
家の前まで自分を送らせ、ヒカリを解放する。
「ね、今日、泊まって行く?」
目を見開くヒカリを見て、乃ノ美は腹を抱えて笑う。
「本気にしないでよ。ピカなんて相手にするわけないでしょ。バーカ」
ムッとした表情になったヒカリが、乃ノ美の腕を掴む。
「な、何よ」
「お前、隙あり過ぎ。俺も一応、男だから。このまま押し倒すことも可能。あまりなめるな」
どすの効いた声は流石の乃ノ美も、背筋に冷たいものを感じずにはいられなかった。
「分かったわよ。好きにすれば」
冷ややかなヒカリの視線を浴びせられたじろぐが、乃ノ美は声を震わせ言い返す。
「な、何よその目。ピカのくせに、生意気」
明らかに声が震わせ強がる乃ノ美を突き飛ばし、そのままヒカリは来た道を戻って行ってしまう。
そんな二人を、ぼんやりとした月光で照らしていた。




