第四章 疑惑④
その四日後、差出人名が記載されていない自分あての郵便を見た途端、ヒカリの顔色がみるみる変わって行く。
「ピカっどこへ行くの?」
部屋を飛び出して行くヒカリを呼び止めたが、振り向きもせずそのまま家を飛び出して行ってしまった。
滅多にない事態に、少し顔を歪めたものの、そんなものを吹き飛ばしてしまうほど、今の乃ノ美は幸福に満たされていた。
ゆったりとした気持ちでソファーに座り、一応メールをと思った乃ノ美は、顔を思わず顰めてしまう。
数分後、ヒカリからメールで遅くなることを知らされた乃ノ美は、自室に隠してあったもう一台の携帯を手に、ベランダへ出る。
険しい顔をして数時間話したのち、深いため息とともに部屋へと戻って行く。それを確かめるように、物陰から見上げる人影があった。
その日、深夜近くに帰ってきたヒカリは、酷く酔っ払っていた。
何を聞いても話にならず、深いため息を吐くそんな乃ノ美に背を向け、ヒカリもまた考え込むように、壁を見つめる。
翌朝、人知れず二人の間に生まれてしまったわだかまりを、互いに誤魔化すような会話をしたのち、ヒカリが会社へ行く支度を始める。
「ピカっ」
一旦振り返ったヒカリを見て、乃ノ美は何も言えなくなってしまう。
「何だよ」
「んん何でもない。いってらっしゃい」
笑みが引きつってしまっていた。
ヒカリが出かけて行ってしまうと、気が抜けてしまったように乃ノ美は、椅子へへたり込む。
ヒカリはもう一台ある電話の存在を知らない。
お互い、プライベートは大事にしようと、鍵の付いた引き出しを持つことにしてたのは正解だった。世梨花への嫌がらせするつもりで契約した携帯を、こんなことで使う日が来るとは思いもしなかった。
ベランダから、ヒカリが駅に向って歩き出したのを確認した乃ノ美は、身支度を済ませその携帯から誰かへ連絡を取り出掛ける。
数歩離れた物陰にさっと身を隠す人影に気が付かず、乃ノ美は駅へと急ぐ。
――一週間も過ぎた午後だった。
買い物に出かけた乃ノ美は腹部に痛みを感じ、その場にしゃがみ込んでしまう。足に伝わる生暖かいものが何を意味しているのか、乃ノ美にはすぐに分かった。
「姫宮様、大丈夫ですか」
「一颯さん、あなたがなぜ?」
「事情は後でご説明します。とにかく、病院へ急ぎましょう」
緊急入院を余儀なくさせられた乃ノ美に待ち構えていたのは、あまりにも残酷な事実。
一颯を身内と勘違いした医師により、気を失っている乃ノ美の容態説明を受けていた。
「一颯さん」
「気が付かれましたか」
「私」
「切迫流産をし掛けているそうです。しばらく安静が必要との説明ですが」
「赤ちゃんは、私の赤ちゃん、大丈夫なのでしょうか」
「予断はまだまだ許せませんが、おそらく大丈夫でしょうという事です」
「ピカ、ピカは」
一颯は首を横に振って見せる。
「それでは、わたくしはこれで」
「一颯さん、瑞樹さんへ伝えて頂けないでしょうか。あなたのお母様は、もうこの世にはいないって」
「しかし、そんな事をされましたら」
「分っています。分っているんです。全部自分がまいた種。刈らなくてはいけないことだって。だけどこれ以上、ピカの目を盗んであんなこと、いつまでも続けるわけにはいかないの。この子は、瑞樹さんの弟でも妹でもない。ヒカリの子なんです」
「ですから」
背を向けて泣く乃ノ美に、一礼をした一颯は病室を出て行く。
ようやくヒカリが病院へ顔を出したのは、翌日の午後だった。
一度は修復されたと思う二人の関係。それは幻に過ぎなかったのではないかと、乃ノ美は懸念を抱き、遅れて入って来たヒカリの顔を見るなり、その思いがあふれ出す。
「ピカ、私に何か隠し事をしているの?」
強張った顔で言う乃ノ美を、一瞥したヒカリが、別にと答える。
「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
乃ノ美の興奮した声が、静かな病室に響く。
「そんなに興奮したら、お腹の子に触るんじゃないのか」
ヒカリは目を合わせようとはしなかった。
「……帰って」
それがすべての答えだと悟った乃ノ美は、思わず叫ぶ。
ヒカリは反論しなかった。
乃ノ美の望み通り、無言でヒカリは病室を出て行ってしまったのだった。
一週間後、無事に退院が出来た乃ノ美は荷物を取りに部屋へと戻り、そこで泣き崩れてしまう。
やっと手に入れた平穏な日々だった。やがて生まれてくる二人の子供のために、用意した品々。あまり得意ではないが、自分が作った料理をおいしいと食べるヒカリの姿が目に浮かぶ。
所詮、おままごとに過ぎなかったのだ。
藤原は亮子にまだ未練を持っている。今回の事件についても疑問を抱き、内密に調査させていると連絡を受け、カーテンをこっそり開け外を伺う乃ノ美は、絶句してしまう。
一颯が言う通り、物陰に立つ人影があった。
あなたは疑われている。
その言葉は強烈に乃ノ美の脳裏に焼き付いた。
おそらく、瑞樹との密会の証拠も入手されてしまっているに違いない。
どこにも逃げ道はない。
乃ノ美は追い詰められていた。
ヒカリなら、話せば分かってくれる。しかしと引き返してしまう自分がいるのだ。肉体関係こそもうないが、瑞樹を愛しく思ってしまう気持ちは隠しきれない。
一颯が言うようにした方が、一番いいのかもしれない。
脱ぎ捨てられた洋服を片づけ、洗い物を済ませた乃ノ美は、小さく笑ってしまう。
こんなにヒカリのことが好きだったなんて、思いもしなかった。部屋を見回し、つくづく痛感させられてしまった乃ノ美の瞳は、また潤み始める。
アパートの階段を下りて行くと、バッタリとヒカリと鉢合わせになり、瞳をゆらゆらと乃ノ美は揺らす。
「どこへ行くんだよ」
「……」
「あいつのところか」
「あいつって、誰のことを言っているの?」
「惚けんなよ。妹尾だよ。腹の子だって、あいつの子なんだろ?」
ふてぶてしく言うヒカリを見て、乃ノ美は目を見張る。
「ずっとそう思っていたの?」
「隠さなくても良いんだ。ちゃんと証拠だってある」
「ピカのバカっ。もういい。この子は、私が一人で産んで育てるから、サヨナラ」
「おい待てよ」
「放して。もういいって言ってるでしょ」
恐れていたことだった。
ヒカリの耳に、瑞樹とのことが入ればこういう話になる。
疑われても仕方がない。これは自分への罰。
乃ノ美はヒカリの手を振り解き、タクシーを呼び止め、そのまま走り去る。
その様子を見届けた一颯が、足早に立ち去って行く。




