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第四章 疑惑①

 誰の目にも幸福に映る日々。

 それがもろく儚いものだとまだ誰も知らずにいた。


 依然、世梨花の消息はつかめないままだった。

 記憶を失くしているとはいえ、知識まで失くしてしまっているわけではない。躰が覚えているとは、よく言ったものだ。二人で歩いている時、外国人に道を尋ねられ、世梨花は見事な発音でそれに答えていた。

 驚いてみている乃ノ美に、舌を出してそう言って笑って見せたのだ。

 どんなことがあっても、生きていける。即ち殺そうと思っても死なない奴。そう悟らさせられた一瞬だった。

 心が痛まなかったわけではないが、内心ホッとした部分もある。

 ヒカリも同じ考えだったようで、わざとそんな話題を振ったことがあった。

 「才色兼備の世梨花のこと、どこかで上手くやっているんじゃないか」

 それがヒカリの答えだった。


 意識下で苦しめられていたものがなくなり、あの殺伐とした感情は、だいぶ薄れている。

 二人で借りたアパートの一室。

 式場のパンフレットを広げ、思わず頬を緩ませてしまう乃ノ美の姿がそこにはあった。

 思いがけず、行動力を見せたヒカリは告白したその数日後、この部屋を決めていた。

 相変わらず毒舌の乃ノ美を、無言で受け入れるヒカリを見て、周囲の人々は苦笑するが、これが二人の幸せの形なのだから仕方があるまい。

 

 経済を扱う雑誌にたびたび瑞樹の顔が掲載され、正式に妹尾グループのトップになったことを二人は知る。

 一方、亮子はモデルを廃業し、専業主婦になったらしい。

 らしいというのは、披露宴以来、何の音沙汰がなくなってしまったからだ。別段、乃ノ美たちから連絡を取る用もないので、そのままの状態が続いているだけの話だが、そうも言ってもいられない事態が、二人の耳に届けられたのは、豪華絢爛の披露宴から一年が過ぎた冬だった。

 

 会長に身を転じた、瑞樹の父親の急死。

 テレビに流れるテロップを見て、乃ノ美とヒカリは顔を見合わせる。この財政界に通ずる人物の死が、大きな波紋を作り、降りかかってくることを知らない二人は、安易に葬儀に出席するべきか否か、の議論で留まる問題に過ぎない出来事として、片付けられていた。

 翌日、刑事という人物が現れ、亮子の素性を根掘り葉掘り聞かれ、何が起こっているのかさっぱり分からないまま、二人は巻き込まれる形で、再び妹尾と関わりを持つことになる。

 公にされていないが、妹尾グループ会長の死には幾つか不審な点があるらしい。それに合わせたかのように、亮子の姿が見えなくなってしまったのだ。

 音を立てて幸せが崩れて行く瞬間だった。


 にわかに世間が会長の死を騒ぎ出し、夫婦間にあったわだかまりが浮き彫りになるさ中、やつれた瑞樹が乃ノ美の元を訪れたのは、刑事がやって来た三日後だった。 

 「いろいろとすまなかったね。きみには一度会って、謝らなくてはと思っていたんだけど」

 「お気遣いなく。それより亮子の消息、まだ分からないのですか?」

 「ああお恥ずかしいけど。報道の通り母と上手くいっていなくってね。父ともそのことで口論になっていたのは、事実だ。使用人たちも、それを目撃してしまっているからね。タイミングが悪すぎた」

 「それ、どういう意味ですか?」

 疲れた表情のまま小さく笑った瑞樹が、肩を竦める。

 「まさか亮子に仕業と、妹尾さん、本気で考えているわけではないですよね」

 「きみたちだって、考えなかったわけじゃないだろ。本人に訊いてみなければ分からないが、九分九厘あいつの仕業じゃないかと警察は考えているようだ」

 「そんな……。妹尾さんだけでも、亮子を信じてあげないと」

 「分かっているんだ。分かっているけど……」

 病室で話す、亮子の顔を思い出していた。

 疲れてはいたが、その横顔はとても美しいものだった。並大抵な覚悟じゃなかったと思う。

 乃ノ美の頬に伝う涙を見て、瑞樹はうな垂れてしまう。


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