第一章 至福①
アヴェリウスとは、貪欲という意味です。幸せの下で蠢くもの。そんなものが書きたくて、この物語を綴りました。
居るだけで華やぐ人。
鶴見世梨花を一言で語るとしたら、誰もがそう言うだろう。
大きな花束を社長から受け取り、口元を少し上げただけの笑み。
日本語と、流暢な英語で別れの挨拶をする世梨花に、最後の別れを労うというよりも、惜しむ言葉を並べ、感極まって抱き合う。
「札束を積み上げてでも、君を手に入れたかった」
耳元で囁かれた世梨花は、顔色一つ変えず、
「大変光栄でございます。自信を持って妹尾家に嫁げます。Thank you very much. There is a short while, but it does not forget the kindness received from the president. Even once, I have never thought you and love. Do not misunderstand. It is not that dirty. Do not touch. This lewd bastard」
何人かが下を向き、顔をニヤつかせるが、言われた当の本人は、さっぱり英語の部分が分からず、隣に立つ秘書も、困った顔をして世梨花を見ている。
さらりとした髪を掻き上げ、微笑んだ世梨花は何の躊躇いもなく会社を後にする。
これを至福の時と呼ばずして、いったいなんなんだと文句の1つも言いたくなるのは、致し方ない話である。現に男性社員の中には、そんな世梨花に思いを告げ、断れた人も数名、複雑な心境のまま拍手を贈っていた。女性社員にさえ憧れを抱かせてしまうのだから、嫌になってしまう。
こんな不公平な話があっていいのか。
常々、姫宮乃ノ美は、全てが当然のものとして、振る舞う世梨花を見るたび思ってしまうのだ。
特別、机にしがみついていたでもなく、有意義な高校生活を送り、当然のように一流大学に合格。それだけでも贅沢な話だというのに、就職氷河期もなんのその、世梨花は何の苦労もないまま、大手企業である丸菱商事の、しかも倍率が高い秘書職をあっさり手に入れていた。
大学へ入るのも、就職するにも一苦労した乃ノ美にとって、腹が立つ話である。
顔に出さないだけだよと、いくら世梨花に説明されても、それすら腹の底に黒いものとして沈殿して行くものには、変わりなかった。
そんな自分がいるのに、満面の笑みで、今まさにこの至福の時を、祝おうとしている。
ワイングラスを、カチリと合わせ、顔を綻ばせる。
そんなことも知らずに、それを受けて世梨花が、鈴を転がしたように笑う。
「世梨花、長のお勤め、ご苦労様でした」
テーブルに三つ指を立て、乃ノ美が頭を下げる仕草を見せる。
「嫌だのん。それじゃ悪いことした人が刑務所から出所してきたみたいじゃない」
何かに弾かれたかのように、また二人は笑い出す。
世梨花と乃ノ美。
高校時代からの無二の親友。それが二人の関係。
端正な顔立ちに底抜けの明るさを持ち合わせている世梨花は、言うまでもないが誰の目も引き、まるで正反対なのが乃ノ美だった。
「のん、遠慮はいらないわ。さあ食べて食べて」
乃ノ美は世梨花に促されるまま、料理を一口すると、途端に顔をほころばす。
「何コレ、超おいしい」
「でしょでしょ。私も初めて瑞樹に連れて来てもらった時、もう大絶賛しちゃったわよ」
世梨花は良く笑う。何がそんなにおかしいのやらと、時々乃ノ美は呆れてしまうが、この鈴を転がしたような笑い声に、皆、惹かれてしまうんだろうなと、料理を口に運びながら思う。
「そう言えば、のん。あのね」
「何、改まって」
さっきまでの笑顔をしまい込んだ世梨花を見て、乃ノ美も食べる手を止め、居ずまいを正す。
がしかし、テーブルの上に置いてあった世梨花の携帯が小刻みに揺れ出し、話は一時お預けになってしまう。
こんなのは慣れっこだ。
二人で歩いていると、決まって声を掛けられるのは世梨花の方。まるで、乃ノ美の存在が眼中に入っていない様子で、取り巻きたちは群れを成して行くのだ。
鳴りだした携帯を手に、世梨花が申し訳なさそうに乃ノ美を見る。
ふっと笑みを溢し、物わかりが良い親友の顔を作った乃ノ美は、精一杯明るく振る舞う。
「良いよ。妹尾さんでしょ。今日のお礼、しっかり言っておいてよ」
満面の笑みで頷きながら、世梨花が席を外すと、素に戻った乃ノ美は、バックから携帯を出し開く。だがそれも束の間、さっさとバックの中に戻してしまうと、頬杖をつき、ぼんやりと自分の姿を映し出している窓に目をやる。
漆黒の夜空に、宝石を散りばめたような夜景。高級レストランでのひと時。どれもこれも乃ノ美には縁がないもの。
自分のみじめさが浮き彫りにされているようで、乃ノ美の中にあるものが重くのしかかってくる。
たまたま同じクラスになったというだけの二人の出会い。乃ノ美のカバンにぶら下がっていたマスコットを見て、世梨花が話しかけて来たのがきっかけだった。それから何となく話すようになり、いつの間にか、二人はいつも一緒に居るイメージが、周囲に定着していた。
そもそも、なぜ自分なんかといるのか、が分からなかった。
共通のものは、そのキャラクターに興味があったという他は、何もない。黙っていても世梨花には、人が集まってくる。人だけじゃない。この世の幸せを独り占めしてしまうのではないかと思わせるような、順風満帆な人生。乃ノ美の目にはそう映っていた。
「お待たせ。えー料理、減っていないじゃん。待っていてくれなくても良かったのに」
乃ノ美の皿を見た世梨花がさらりとそう言うと、ワインを一口運び、美味しいと微笑む。
誰もが、愛するのを否めないこの笑顔。
「だって一人で食べても、おいしくないもの」
乃ノ美は口を尖がらせ、乱暴に肉を切り、大口を開けそれを放り込む。
「瑞樹の電話攻撃には、困ったものだわ」
そんな乃ノ美を見ながら、世梨花はグラスをまた傾ける。
「相変わらずなの?」
「もう心配性なのよ。この先、思いやられるわ」
一日に数回、世梨花の携帯は瑞樹の名を表示される。
「まぁそれだけ、愛されているって証拠じゃない」
「ならいいけど」
顔を曇らす世梨花を見て、乃ノ美は首を傾げる。
「うん、何でもないんだけど、ただ本当に、そうなのかなって、疑いたくなる時があるの。今だって、明日の予定、キャンセルできないかって言う電話だったのよ」
「明日って?」
「式場の打ち合わせ。まだドレスだって決まっていないのよ」
「ドレスか。いいな」
「そうだ。乃ノ美、明日の午後、空いていない?」
「夕方なら」
「うんうんそれでいい。私と一緒にドレス見に行ってよ」
「いいけど」
「ありがとう。だから、のんが好き。さあどんどん食べて。お酒もじゃんじゃん飲むわよ。何なら部屋、取っても良いって、瑞樹が言っていたから」
「やった!」
誰もが羨むような人生。当然のように財閥の御曹司である妹尾瑞樹との婚約。夢のようなシンデレラストーリーを見せつけられ、内心穏やかじゃない乃ノ美は、ただひたすらに笑みで応えるしかなかった。
*作中の英部分は、翻訳機によるものです。あっているかは定かではありませんが……。
ありがとうございます。短い間ではございますが、社長から受けたご厚意は忘れることはありません。一度も、あなたを好きと思ったことがありません。勘違いしないで下さい。汚れるじゃありませんか。触れないでよ。このスケベ野郎。
という意味のつもりです。




