第四夢 希望
「ねぇ、あなた知っていた? 世界を救うのは〝愛〟だって」
田んぼのあぜ道、夕暮れの空、小学生から高校生になった今でも、いつも同じ場所を通っていて、この町を離れたことなんてないはずなのにひどく郷愁を感じさせる秋。
チハルは長い髪を揺らしながらそんなことを言った。
チハルは時折こう言う話題を唐突に語った。押している自転車のハンドルにほっぺたがつきそうになるくらい身体を曲げて、「ねぇ」と切り出すのだ。
そして、僕はいつも知っていたさ。と見栄を張る。
「 そう、あなたって凄いのね。私知っているわ。あなたみたいな人を博識っていうのね」
チハルが笑った。本当はチハルが口にした〝ハクシキ〟という言葉さえ知らない。彼女のことだ、本当は僕が何も知らないことを理解しているはずだ。なのに、彼女は毎回見栄を張る僕に対して、〝そう、凄いのね〟と言う。
僕のメッキなんて、ほんの少し突けばすぐに剥がれるのに、彼女はけしてそうしようとしない。まるで大事な卵を抱えるように、温めるだけに留めるのだ。
だから、今日もこれで会話は終わるのだと思っていた。
「でも、博識なあなたもこれは知っているかしら? ねぇ、〝愛〟て何だと思う?」
僕は答えに詰まった。
〝愛〟ってなんだ。人を愛する。言葉にすれば簡単なことだけど、まだ恋もしたことない僕にとって、更にその上をいくであろう〝愛〟を語ることは、地面に立ちながら空を飛ぶツバメを捕まえようとするくらい難しいことのように思えた。
ただ、僕は今まで張ってきた見栄の手前、この問いに答えない訳にはいかないだろうと思った。
自転車の車輪が空々と鳴った。チハルはもう前を向いている。ふたりの歩く速度は変わらない。
「大事にすることじゃないかな」後数分でいつもの分かれ道につくと悟った僕は、苦し紛れにそんなことを口にした。
「大事にするって……〝愛〟って大事にすることなの?」チハルが僕の方を見た。笑っていた。
「そうだと思うよ。〝愛〟するっていうのは、きっと行動なんだ。そうじゃなければ、表せないものなんだよ」僕は更に言葉を重ねた。胸の奥が熱くなった。何だか、とても変なことを口にしているような気がして気恥ずかしくなったのだ。
「ふーん、なるほど。やっぱり、あなたって凄いのね。あなたみたいな人を哲学者って呼ぶんだわ」チハルがまた僕のことを褒めてくれた。僕はほっと一息ついた。これで僕のメッキが剥がれる危機は過ぎた。すでにバレているだろうけれど、それでも、まだ僕は彼女にとって質問するだけの価値がある人物でいたいのである。
「そしたら、〝愛〟って何色なのかしら?」
チハルの足が止まった。僕はチハルの方を振り向いた。チハルは背中に大きくて真ん丸な夕日を背負っていた。黒髪に反射してオレンジに見える。微笑を浮かべた彼女の輪郭が揺らいで、そのまま夕日に解け込んでしまいそうだった。
僕はそんな彼女に見惚れてしまっていた。
「私ね、きっと〝愛〟って黒色だと思うの」初めて彼女が自分から質問の答えを言った。
「あなたの言う通り〝愛〟が誰かを大事にするってことならば、それって、そのひとのことをすべて受け入れることだと思うわ」
「どうして、それが〝黒〟になるんだい」
「だって、〝黒〟って、どんな色でも受け入れるのよ。どんな色でも受け入れて、自分の内に取りこんでしまう。でも変わらない。ずっと変わらないの……それって、〝愛〟じゃないかしら?」
僕は彼女の質問に答えられなかった。いつものように、〝知っていたさ〟と言えない。僕はただ茫然と彼女を見つめていた。
長いまつげに、大きな瞳。筋の通った鼻に、細い輪郭。幸の薄そうな唇も彼女の美しさを際立たせていた。
彼女は細い指で僕の胸を刺した。
「今日の夜中、私の家にある蔵に来て」彼女が言った。僕の心臓が破裂しそうなほど高鳴った。
僕は彼女にこの音がばれませんようにと必死に願いながら、わかったよ。と了解した。
深夜、彼女の言う通り家の前まで来た。彼女と別れてから、気がつけばもうこの場にいたような気がした。汗をかいてはまずいと思い、務めてゆっくりと来たにもかかわらず、息は乱れて心臓は激しく脈打っている。人間の心臓は一生で脈打つ鼓動の数が決まっているという噂を聞いたことがある。真偽のほどは定かではないが、もしそうならば僕の寿命はこの数時間で大幅に縮んだだろう。
僕はチハルの家にある蔵の前に立った。すでに家の電気は消えている。他の家族は寝ているのだろう。携帯を鳴らそうかと思ったけれど、もし彼女が外に出ている途中になって呼び止められてはいけないと思い躊躇した。
私の家に来て。とっても甘美な響きだった。馬鹿なことをしていると理解していても抗うことのできない響きだ。今まで張ってきたメッキなど、この響きに誘発された衝動に一瞬で吹き飛ばされてしまった。
僕は息を飲んで蔵の扉を開いた。どうしてか分からないが、彼女は絶対にこの場にいると確信があった。
はたして、その予想通り彼女はいた。ただ、最初は分からなかった。中が暗くて何も見えなかったからだ。だから僕は携帯電話のライトをつけた。
絶句した。彼女はたしかに僕を待っていた。
混乱した。でも、これの一体どこが〝愛〟だというのだろうか?
携帯電話のライトが照らす先、真っ白な肢体を宙に漂わせながら、チハルは首をつっていた。
チハルが自殺してからしばらくが過ぎた。遺書のようなものは残っていなかったらしいが、自殺らしい。僕にとっては自殺か他殺かなどどうでも良いことで、ただ彼女を失ってしまった日々を鬱々と過ごしていた。
そして今日も、いつもふたりで帰っていたあぜ道を歩く。
あの日と同じ、同じ時間、なのに今はもう夕日が沈みかけている。時間の流れとはあまりに残酷だと思った。
沈んでいく夕陽を静かに見送った。そして気がついた。もしかすると、僕と話した内容が彼女にとっての遺書だったのではないだろうか。
チハルは、〝愛〟について考えていた。その答えを僕に求めた。僕は珍しくそれに答えた。チハルが珍しく深く追求してきたからだ。彼女は〝愛〟について深く知りたかったのだ。
そして、彼女は〝愛〟について知るために行動した。
それが何故死だったのかは今の僕にはわからない。
「ねぇ、私の行動は〝愛〟だと思う?」
彼女の声が聞こえてきそうだった。いつものように、長い黒髪を揺らしながら、ほっぺが自転車のハンドルにつきそうなほど上体を曲げて僕を見つめる。幸が薄そうな小さな唇で微笑むのだ。
僕は自分の胸に手を当てた。胸が暖かい。涙が流れた。
この答えは、簡単に出すことはできない。
きっと何十年もかかるだろう。
ずっと、ずっと、大事に抱えていよう。
そう思った。