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第三夢 天上の光――膨張する熱

 久しぶりに蒸し暑い夜のことだった。最近は蟋蟀の鳴き声も聞こえてきており、夏の終わり、残暑の尻尾ともいえる時期で当然夜は涼しかった。どうかすれば、冬物の布団が欲しくなることだってあったのだ。

 だというのに、今夜はやたらと蒸した。昼は涼しかった。蒸し暑くなってきたのは、私が明日提出すべき課題に見切りをつけて、寝始めてから数十分ほどしたからだ。それまでは、とても涼しかったのだ。

 私は、こんなことがあるのだろうか。と不思議に思った。夜中から急に蒸し暑くなることなど、気象学の観点からあり得るのだろうかと。私は、そんなことを考えた。考えるごとに熱気が身体を包んでいくような気がした。

 堪らず、私は布団から抜け出し、隣の部屋に移ることにした。

 私はT大学の学生であり、学生寮に住んでいる。築四十年を超えた学生寮は普段の手入れも杜撰であることから、かなりくたびれている。六畳一間の部屋は、夏は暑く、冬は隙間風で寒いという安さ以外に売りは何一つない寮だ。それでも学友と過ごす日々は存外楽しくて、入寮した当初は引っ越し資金が溜まったらすぐにまともな場所に移ってやるなどと考えていた自分であったが、ついつい四年も居座ってしまった。

「邪魔するぞ」隣部屋のドアを開く。隣は同じ学科に通う友人Yの部屋だった。

「なんや、まだ起きてたんか」Yは自分のことを棚に上げたような口ぶりで、ドアの前に立つ私へ言った。

「どないしたん? 入らんの?」

 何故かドアを開けたまま入ろうとしない私を訝しがってYは目を細めた。正直、私は驚いていた。

 部屋のドアを開けた時の熱風。私の部屋の比ではない。蒸し風呂のような風に思わず片手で顔を隠してしまったくらいだ。

「お前こそ、寝ないのか?」私は、熱風に押されぬようYの部屋に足を踏み入れた。口ぶりは平素の時と変わらない。しかし、私の中には思いがけず警戒があった。というのも、これほどの蒸し暑さの中、Yは長袖のトレーナーを着て平気な顔をしているのだ。

 彼はまったく暑さを感じていないと言うのだろうか。Yは平気でパソコンのキーボードを弾き始めた。部屋の奥にある窓クーラーへ視線を移した。実は私が部屋を移動した理由がこれだ。私の部屋にはクーラーがない。というか、この寮には基本的にエアコンがないのだ。だから個人で勝手に購入して取りつける以外、この寮で快適に過ごすこと難しい。私も去年までは、相部屋だった友人が有していた窓クーラーの恩恵に御相伴に預かっていたが、今年から最上級生は一人部屋だ。後一年なのに窓クーラーを買うのもバカらしくて、今夏は扇風機一台で耐え抜いた。ただ、どうしても我慢できない時、こうして隣部屋を訪れ好きなだけ涼んでいたのである。

 真夏の間、昼となく夜となく稼働していた窓クーラーがしんとしている。今夜は明らかに熱帯夜だというのにどうしてだろうか。

 私はYの背後にあるソファーに腰を降ろした。一分もしない内に、ソファーと触れている面にじんわりと汗をかく。Yは依然、沈黙のままキーボードを叩いている。

「ゼミの課題か? そちらのゼミは余程急いでいるらしいな」

「まぁ、せやなぁ。下書きを如何に早く仕上げるかで論文の出来が変わるって、先生、言ってはったからな」

 Yは手を止めずに口だけで返事をした。集中しているから、この暑さが気にならないのだろうか。私は、なぜかYに対して今日は蒸し暑いなぁ。という一言が言えなかった。いや、結果が見えており躊躇してしまっている。何故なら、Yはまったく暑さを感じていないのである。それは間違いないと確信できた。

 そうなると、間違っているのは私とYの一体どちらなのか。ということになる。

 私は慎重にその判断を行うために、更に話しを進めた。

「確かにそうなのだろうが、提出にはまだ四カ月もあるぞ」

「違うやろ、四か月しかない。ってやつや」

「お前がそんなに勉強熱心だとは思わなかったな」

「なに言っとん。俺ほど熱心な奴はおらんへんやろう」Yが笑った。冗談っぽく言ったその横顔は充実していた。

 私は思わず声を失った。Yがそう言った途端、一気に部屋の熱が上がったのだ。赤外線に全身を照られているような圧迫が襲った。

 くらりと目眩がした。動悸がする。きっとこの身体はおかしくなってしまったのだ。でも、一体なぜだ。なぜいきなりこんなにも変調をきたしてしまったのか。

 私はソファーに身を委ねて、天上を見上げた。

「あっ」思わず声が出た。

 あるべき場所に天井がない。あるのは只一面の光だ。明るすぎて目が眩むほどの光が、遥かな先から降り注いでいた。

「なに? どないしたん」さすがにおかしいと感じたのか、Yがこちらを振り向いた。

 私は言葉を返さなければと、頭の隅で分かっていたがそれどころではなかった。

 自分に一体何が起こっているのか、唐突に理解できてしまった。

 こちらを振り向いたYへ視線を向けた。Yは輝いていた。全身を焼かれるほど熱く、熱は膨張していた。そう、隣である私の部屋を焼くほどに。

「いや、何でもないんだ。すまない」私はそう返すのが精一杯で、その場から逃げ出した。

 深夜の寮、消灯した廊下は非常用の灯りがついているのみで暗いはず。しかし、今は明るかった。

 私は堪らず外へ逃げた。Yから遠のけば、この暑さからも、光からも逃げられると思ったのだ。

 私は駆けた。すでに全身は汗で濡れている。他の寮生の迷惑など思慮の外において玄関まで駆け、スリッパのまま外に飛び出した。

「あっ」再び声が出た。

 外は光で満ちていた。夜の闇は払われ、世界は天上から降り注ぐ光に満ち、そしてクラクラするほど熱い。

 まるで、天国と地獄が一緒に混ぜ合わさって具現したかのようだった。

 私は天上の光を見上げた。膝が笑い、気を抜けば光に押し潰されてしまいそうだった。

「くそっ、くそっ、何だと言うんだ。そんなに俺はダメなのか」私は狂乱に陥った。

 こんなことに気がついてしまった自分を恨んだ。

 世界はこんなにも光と熱に満ちていたのだ。

 私は泣きたくてたまらなくなった。怖くて堪らなくなった。

 地面が揺らぎ、今まで確固として抱いた世界が脆く崩れ去るような気がした。

 熱気は世界を駆け巡り、未来は光り輝く。

 地球は回り、時間は不可逆だ。

 私は、そんな当たり前のことを今夜、恐怖と伴に実感したのだった。

 そして、その恐怖と伴に生きなければいけないことに絶望した。


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