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第一夢 『狂人幸福論』


※多少グロテスク、スプラッターな表現がありますので、苦手な方はご注意ください。

 狂人幸福論


 これは、僕が小学五年生だった時の話しだ。僕はN県のI市という、田舎でもなければ都会でもない、この日本ではありふれた場所に住んでいて、ありふれた小学校生活を営んでいた。いや、あの頃を懐かしく思い出すことができるのだから、謳歌していたとも言えるのかもしれない。

 とにかく、極々平凡な小学生だったということだ。その平凡だった頃を、こうしてノートに書き記そうとしているのには、少しだけ理由がある。

 僕はもうダメなのだ。

 断片的、いや直接的過ぎて、これでは説明になっていないだろうか。でも、仕方がない。僕はもう本当にダメなのだ。気が狂いそうなんだ。

 生きて行くということは、単純じゃない。多くの人間の思惑が絡み合って、自分にはどうしようもない流れがあって、昔から連綿と続いている慣習があって、僕はこんなにちっぽけで、肩幅も狭いのに、それらを背負って歩くことを、当然のように押しつけられるんだ。

 だから、狂いたい。只管に狂いたい。人は変われると思った時から、変わり始めるというのなら、きっとこのノートを文字で一杯にしたあかつきには、僕は狂っていられるんだ。

 狂人よ。この世から去れ。と後ろ指さされて、狂人であることは幸福である。と言い返し、僕は胸を張って堂々と、この世から去ることができるのだ。

 そうだ、僕はどうしようもなく狂気に憧れている。取りつかれている。だから、僕は平凡だったけど、たしかな平穏に包まれていた子どもの頃の、ほんの一瞬、喜びを持って狂気に触れた時のことを書き記して、今までの自分にお別れを告げたいと思う。

 その時のことを思い出し、心に刻み込むようにしていけば、僕はきっと狂うことができるはずだ。この狂気への憧憬は、あの暗いコンクリートの隙間に続いているのだから。




 沈む夕日、赤色に染まった広い四車線に、大きなビルが影を落としている。当時飼育員をしていた僕は、少し肌寒くなったことを感じながら、放課後の餌やりとウサギ小屋の掃除を終え、家路ついているところだった。

 その頃の僕は、大小さまざまな建物が立ち並んだ、その隙間を見るのが好きだった。それは、大きなビルがごった返すビジネス街の隙間でもよかったし、人家がごった返す住宅街の隙間でもよかった。光の射さない暗くじめじめした空間。僕はそこにどうしようもない、冒険心にも似た胸のときめきを感じていたのだ。

 だから、それと出会ったのはきっと偶然なんかじゃない。帰り道のビジネス街、ビルの間に見えていた夕日が沈み、マジックアワーさえも終わろうとしていた時だった。


 ――それが落ちてきたのは。


 ビルとビルの僅かな間。長く続く、大人の肩幅ほどの隙間の奥に、じめじめとして今にも溶けだしそうなコンクリートの地面に、それは真直ぐ落ちてきた。

 僕は、突然のことに目をまん丸にして、落ちてきた何かを見つめた。鼓膜を震わせたのは、硬い何かが砕け、ひしゃげ、飛び散る不快な音だったけど、頭の内に広がったのは、胸中に燻ぶる好奇心に薪がくべられたイメージだった。

 マジックアワーが過ぎ去っていく。薄暗かったビルの隙間は、さらに闇を深くし、じめじめとした空気は質感を持って押し寄せてくる。僕にとっての魔法の時間は、今から始まるのだと、確信できた。

「おじさん」

 声をかけた。うつ伏せに倒れているその人の形をしたものが、本当におじさんと呼べる年齢だったのか、今となれば不明だが、小学生だった僕からしてみれば、スーツらしきものを着た人は皆おじさんだった。

「つぶれちゃったの?」

 また声をかけた。腕は曲がり、足は折れ、見えては生きていけないところが顕わになっている。

 その時の僕は、どんな顔をしていたのだろうか。恐怖に目を震わせ、唇を引きつらせていたのだろうか。いや、違う。きっと僕は、素晴しいこの出会いに瞳を輝かせ、唇に興奮を宿し、さらには小さい男性器を無様にも膨張させていたに違いないのだ。

 だって僕はずっと、この世界を壊してくれる何かを求めていたのだから。

「もしかして、つぶれちゃった?」

 呟きながら、足を踏み出す。おじさんは、ぴくりとも動いてくれない。僕は慣れ親しんでいる隙間とは違う、どこか鼻につく匂いで鼻腔を満たしながら旋毛の前に座り込んだ。

 その時だった。もう動くはずのないそれが、動いたのは。

「ゴァ、ゴァ」

 おじさんは、たしかにそのような声を上げた。さすがに驚いて、尻もちをつく。おじさんはまた同じ声を上げると。まるでエビのように、無造作に、背筋だけで上半身を起こした。ひっついたものが、剥がれる音がして、糸を引いた。

「うわー、ぺっちゃんこだ」

 僕は、その顔を見て純粋に歓喜の声を上げた。潰れてぐちゃぐちゃになった顔は平面で、目と口だと思われる丸く暗い窪みが、三つ穿たれていた。その下の穴から、おじさんは唸るように声を上げていたのだ。

 おじさんは、エビ反り状態から無理矢理立ち上がろうとした。でも、できなかった。潰れたショックで神経が断絶してしまったのか、そもそも折れた脚で立ち上がるのが無理だったのか、下半身をもぞもぞ動かすだけで、まったく立ち上がれそうな気配はなかった。

「おじさん、大丈夫?」

 おじさんの懸命な努力が、なんだか無性に可哀想で。おじさんは僕の顔を真っ暗な二つの穴で見つめると、

「ゴァァ、ゴァァ」

  と、少しだけ悲しそうな声を出した。

「喉が渇いたの? 血一杯出しちゃったもんね」

 何となく、おじさんが訴えていることを察して、鞄から水筒を取り出す。大分過ごしやすくなってきて、そろそろ学校へ持って行くのは止めようかと思っていたが、まだ止めなくて良かったと、自分の判断が少しだけ誇らしかった。

 キャップを開け、コップにお茶を満たす。ずっとうめき声を上げていたおじさんだったが、お茶を入れている間は、静かに行儀よく待っていてくれた。

「偉いね、おじさんは」

 そう言うと、おじさんは早くくれと急かすように、下の穴をパクパクと動かした。その拍子に穿たれた穴の内でくちゃくちゃ、カラカラと音が鳴る。おじさんは腕も使えなかったので、僕が飲ませてあげた。

 よっぽど喉が渇いていたのだろう、おじさんは勢いよくお茶を飲み干すと、力尽きたようにまたばったりと倒れてしまった。

 そろそろ帰らないときっとママに怒られる。僕は倒れてしまったおじさんの旋毛を見つめ、そっと撫でた。思ったよりも柔らかくて、まだ温かい。

 ――きっと明日も来るからね、いなくなっちゃ嫌だよ。

 そう言い残して、足早に隙間からすり抜けた。街灯とビルの灯りに照らされた道路は、どこか色あせて見え、後ろを振り向けば、真っ暗になって奥まで見通せない隙間は、いつもよりほんのちょっとだけ輝いて見えた。





 おじさんと僕の出会いから一週間。おじさんは毎日そこにいた。学校で飼育されている動物たちの世話をした後、おじさんの元へ行くことが、僕の日課になっていた。

「ゴァ、ゴアァ」

 僕が近づくと、おじさんはいつも出迎えてくれた。相変わらず足は動かないのか、不格好なエビ反りで、真っ平らな顔をこちらに向けながら低く唸っていた。

「おじさん、今日も食べモノ持って来たよ。今日は食べてくれるのかな?」

 この一週間おじさんはずっと飲まず食わずだ。出会った翌日から、パンやおにぎりやお菓子まで、色々食べ物を渡したけど、おじさんは潰れてしまった鼻で匂いを嗅ぐだけ。けして口に入れようとはしなかった。

 きっとこのままでは死んでしまう。

 そう心配していた僕は、手に持っていたビニール袋から生肉を取り出す。台所から盗んできたものだった。何の肉だったか明確に覚えていないが、記憶している形から察するに鳥の胸肉だと思う。

 僕が胸肉を指し出すと、おじさんはいつもと同じように匂いを嗅き始めた。

「おかしいね。おじさんもう死んでるのに。昔の癖なのかな」

 その仕草を見てコロコロと笑う。すると、

「ヒョォォォォォ」

 おじさんが、いきなり空気を吸い込んだ。今まで唸り声しか上げたことがなかったから、心底驚いた。

「なに? このお肉食べたいの?」

 尋ねる。おじさんは頷く代わりに、丸い口をパクパクさせる。その様子に気をよくした僕は、おじさんの真っ暗な穴の内へ、手に持っていたお肉を放り込んだ。歯も砕けてバラバラになっているおじさんは、まるで蛇みたいにお肉を丸のみにした。少しだけ曲がった首が膨らみ、胃に落ちて行くのが分かった。

「おいしかった、おじさん?」

 おじさんは答えるようにまた低く唸った。どうやら気に入ってもらえたらしい。僕は、安堵の息をつくと立ち上がった。おじさんが、二つの穴で僕を見つめる。

「ごめんね、今日はもう帰らなきゃ。明日、また来るからね」

 これからのことを考えなくてはならない。毎日台所から肉を盗んでくるわけにもいかないし、毎月の小遣いでは、とてもじゃないが足りない。おじさんを少しでも長くここに引きとめておくためには、どうにかして生のお肉が必要だ。

 名残惜しそうにこちらを見つめるおじさんに、手を振って隙間を後にした。





 おじさんと出会ってから、二週間。僕はなんとかお肉の調達にめどを付けていた。

「今度は、■□■ちゃんがいなくなったぁ」

「またかよ。ちくしょー、こんなことするのは、どこのどいつだ!」

 月に一回開かれる放課後の飼育委員会会議。その席で、僕の対面に座っていた四年生の女子生徒が鼻をすすり、その隣では、同じく四年生の男子生徒が憤りを顕わにした。女子生徒が名を呼んでいるのは、七匹いるウサギの一羽のことで、今朝餌をやりに行くといなくなっていたそうだ。

 今週に入り二羽目、名前をつけていたところを考慮すると、随分可愛がっていたのだろう。担当の先生は、誰か盗みに入っているのかもしれない。警察に相談してみようと、慰めにもならない言葉で慰めていた。

 結局、この月の会議は、べそをかく女子生徒を宥めて終わった。早くおじさんに会いに行きたかった僕は、会議が終わり次第足早に教室を出ようとする。

「あっ、ちょっと待って」

 そこで、先生から声をかけられた。まだ新任の若い女性だった。僕は少しいらつきながらどうしたのかと尋ねた。

「あなたも、うさぎさん可愛がってくれてたわよね。いつも熱心に世話してくれたし。あまり気にしてはダメよ。悪い人は先生たちが捕まえてあげるからね」

 気遣うような、元気づけるような瞳で語りかけてくる。きっと先生は、僕が好き好んで熱心に世話していたと思い込んでいるのだろう。たしかに僕は、他の委員たちよりも多く世話に出ていたし、休日の世話だってほとんどが僕の仕事だった。

 なにも分かっていない癖に。

 苛立ちは一層上昇し、今にも噛みつくか、側にある机を持ち上げて、おじさんみたいにその顔をぺったんこにしてやろうかと思ったが、何とか感情を押し殺して頭を下げた。





「本当に頭に来るよあの先生」

 翌日、僕はお肉を上げてから、いつものように、エビ反りになっているおじさんへ昨日の憤りを語った。日は落ち、隙間はとても薄暗かった。

 もちろん、昨日の会議が終わった後にもおじさんに会いに来ていた。その時に憤りをぶつけなかったのは、きっと僕の中で理論が練りあがっていなかったからだろう。

 おじさんは、少し曲がった首を傾けながら、壁に寄りかかった僕を見上げていた。

「だいたいさ、盗んだやつだって、どうしても盗まなくちゃいけない理由があったのかもしれないじゃないか。それなのに一方的に悪モノ扱いさ。僕たちだって生きるためには悪いことをしなくちゃならないことだって、あるだろう。必要悪ってやつ」

 どこかの漫画で仕入れてきた、理論を展開する。

「そもそも、この世界はおかしいのさ。自分が遊びたいからって僕に動物小屋の掃除を押し付けるあいつらもおかしいし、お気に入りのウサギがいなくなってべそかいてたくせに次の日には笑ってるあいつもおかしいし、絶対捕まえるとか言っといて自分では何もしないあいつもおかしいんだ。みんな平等だと言ってお兄ちゃんばっかり可愛がる母さんもおかしいし、正義だと言って戦争するのもおかしいし、人を殺すなといって死刑があるのもおかしいし、汚いんだ。この世界は汚いくせに、ほら綺麗だろって押しつけてくるんだ。この美しさが理解できないのは、お前がおかしいからだって言うんだ」

 話しているうちに感情が際限なく高まって行く。

 ――僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くないのに。悪いのは世の中で、汚いのはあいつらで、世の中が綺麗なんかじゃないから!

 どうにも抑えきれなくなった僕は、おじさんの身体を横から思い切り蹴飛ばした。

 ぐにゃり、びちゃりっと靴越しに嫌な感覚が伝わり、おじさんはなんの抵抗もなく仰向けに転がった。ただでさえ出来の悪い粘土細工みたいだった四肢が投げ出され、衝撃で首がさらに曲がる。同時に、ずれて錆ついた歯車を無理に動かしたかのような音がして、骨が皮から突き出した。ひっついた肉片が、上のビルから辛うじて降りてくる光に、てらてらと反射した。

「でも、おじさんは綺麗だと思うよ」

 僕は息を荒げながらそう言った。本心だった。死んでいるのに、生きている。他の生き物は殺したら死ぬのに。

 生と死の境界が狂っている。狂っていながらも、そこにきちんと存在している。この三つ穴のぐちゃぐちゃしたおじさんは、僕にとってなによりも輝いて見えた。

「ゴァァァ」

 おじさんが低く呻いた。僕を憐れんだのだろうか。

「なんだよ、なんだよその目は」

 こんな僕に餌をもらってこの世にいるくせに。僕はおじさんの潰れた顔に覆いかぶさるようにして、睨みつける。

 真っ暗な二つの穴は、なにも映してなかった。





 それから三日間を挟んで、隙間に行ってみると、おじさんは居なくなっていた。冷たい雨が降っていた日だった。

 蹴ったりしたから、僕のことを嫌いになったのだろうか。手に持っていたビニール袋を広げる。中には仲直りの印に、おじさんに食べさせてあげようと思っていた、とっておきのお肉が入っていた。

 血が滴る肉を掴んで、黙っておじさんが転がっていた場所へ放り投げた。おじさんと出会った時のような、無様な音を鳴らして地面にぶつかる。おじさんはどこに行ってしまったのだろうか。死んだのだろうか、それとも動けるようになって、どこかへ歩いて行ってしまったのだろうか。

「いっぱい、新鮮なお肉上げたからなぁ」

 雨に混ざって溶けて行く赤を見ながら、心底残念だなと思った。もっと色々話したかったのに。

「せっかく上手く行くかと思ったのに」

 でも、どこかへ行くなら行くで、そう言ってくれたらよかったのになぁ。


 せっかく――「殺そうと思ってたのに……」




 私は冷え切ったコーヒーを喉の奥に流し込み、ノートをデスクの上に置いた。そして、このノートを渡した女性に目を向ける。彼女が少し不安げな瞳で私の方をうかがってきたので、大丈夫ですよ。と微笑む。

「先生は、このノートを呼んでどう思われますか? 先生も彼は狂っていたと思われますか?」

 どこか恐れを抱いたような声で、彼女は聞いた。彼女は他の心理学畑の連中にも、このノートを見せたと言っていた。そして、その先々で、このノートを書いた人物は初めから狂っていたのだろう、と太鼓判を押されたとも。

「そうですね」

 背もたれに身体を預け、ゆっくりと自分の考えを咀嚼する。彼女から聞いた彼の話しと、彼が自殺した時に叫んだ言葉、そして自殺した場所を考慮に入れ、思考をまとめ上げる。

 と、そこで思わず笑ってしまった。彼女が怪訝な表情をしたので、慌てて謝った。

「失礼しました。けして彼のことを笑ったのではありません。ただ、なんと言うか、これは心理学の知識を用いる必要もないし、そこまで考え込むことでもないかと。そして、あなたに物知り顔な態度で、彼は狂人だと太鼓判を押した方々は、学者としては優秀なのかもしれませんが、人としては、いまいちだったのかと思いましてね。まぁ、私なんかは学者としてもダメダメですが」

「つまり、先生は彼が狂っていなかったと、おっしゃるのですね?」

「ええ。彼は飛び降りをする際、こう叫んだそうですね――狂人こそは幸いなり。幸福とはすなわち狂うことにある。と」

 彼女が頷いた。

「そのノートを見て、彼が狂気に憧れていたのは理解できます。でも、だからって、彼が本当に狂っていたとは思えないんです。だって、前の日だっていつも通り穏やかに話しをしていたんですよ……それなのに、あんな死に方」

 そう言って彼女はハンカチで目頭を押さえた。私は黙って頷いた。彼女の言う通り、彼は狂気に憧れていたのだろう。それは、彼の死に際の言葉からもよく見てとれる。そして彼の死に場所は、自分の職場がある、ビジネス街の狭い隙間だった。

 彼はどこまでも憧れたのだ、生と死の境が曖昧な狂ったおじさんに。

 でも、だからこそ、悲しいことに彼は狂ってなどいなかった。

「彼は狂ってなどいません。狂っていれば彼は死ななかったでしょう」

 彼女は、とうとう嗚咽を抑えられなくなった。彼女は分かっているのだ。良く分かっているからこそ、認めたくなくて、悔しくて、恐ろしくて、本当は狂ってしまっていたのだと思い込みたいけれど、そうするのはどうしても嫌で、だから他の誰かにも彼は狂っていなかったと、そう言って欲しかったのだ。

 彼は誰よりも心優しく、誰よりも理想主義者で、誰よりも世界は美しいのだと信じ、そして誰よりも懸命に生きた、平凡な男だったのだから。

「これからは、あなたのケアが必要です。大丈夫。私と一緒の時は、あなたは狂ってもいいんですよ」

 私は落ちついた彼女にそう言って、今回の診療時間を終えた。震える肩を看護師に支えられながら退出していく彼女を見届け、コーヒーを入れ直した。

 一口飲んで、ぼんやりとその黒を見つめる。

「ぐちゃぐちゃの顔に、真っ暗な穴のおじさんか」

 数少ない目撃談によると、彼は叫んだ後、天高いビルの屋上から大人一人の肩幅程度しかない隙間に沿うようにして、正面から飛び込んだという。普通なら、身体の前面がぺしゃんこになるはずだ。

 しかし、残念なことに彼が地面に着くころには、仰向けになっていた。落下する途中、衣服がビル側面に設置された何かにひっかかり、うまい具合に横に一回転したのだそうだ。彼は死を選ぶことはできたが、死に様は選べなかったのだ。

「いや、それも違うか。彼は、本心では生きたかったのだから」

 きっと、おじさんと会ってしまったのが運の尽きだったのだ。彼は、おじさんを通して世界は狂っていることを、はっきりと悟ってしまった。生きているけど死んでいる。そんな狂った存在がいる世界は、やはりどうしても狂っているのだと。世界は矛盾していて、狂っていて、それが当たり前で、そして、そんな世界に自分が馴染めないことも、許せないことも完全に理解してしまった。

 自分と世界との折り合いをつけるため、おじさんを許容したのに、結局無理だったばかりでなく、ならばせめて自分を貫こうとした決意さえも、おじさんの失踪によって挫かれてしまった。

 デスクに置いたノートをめくる。ノートは、文字で一杯になど、なってはいなかった。

 出会いと別れ。平凡に、そして何もかもが中途半端に終わってしまったのだ。

 静かにため息をついた。ひと一人が自殺したとしても、年間何万と自殺する人がでるこの世の中では、大した話題にもならない。

 狂人になりたいと願った男は、願い叶わず。多くの狂人を内包したこの世界は、今日も変わらずクルクルと回るのだ。

 おもむろにカップを目の高さまで上げる。窓の外は、夕日が沈み、束の間の魔法の時間が始まろうとしていた。


 彼が胸を張って飛び立てことを信じ、美しい世界に辿りつけることを願って。



平凡な男の話しでした。えっ? 意味が分からない。それでいいのです。


あと、「おじさん」にはモデルがあります。記憶が定かではないのですが、たしかネットの掲示板か何かで見ました。知ってる人もいますかね?十行ぐらいの、短い恐怖体験談だったのですが。

興味があれば、探してみて下され~。


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