雪の降る日に
村に雪が降りました。
昨夜からしんしんと降り続いた雪は村人達が眠っている間に静かに積もり、景色を白く塗り替えたのです。
朝、働きに行く両親を見送りに出た弥吉は、それを見て目を輝かせました。
一面の銀世界です。
真っ白なふかふかの雪の絨毯が、汚れ一つ無く広がっているのです。
「弥吉、兄ちゃんの言うことをよく聴いて、いい子にしてるんだよ」
父ちゃんがそう言い含め、母ちゃんが弥吉の頭を撫でて、銀世界に踏み出して行きます。
二人の足元に足跡がつき、純白の中でくっきりと存在を主張していました。弥吉も、そんな風に足跡を残したくてたまりません。
白い息を吐き出しながら、そろりと一歩踏み出しました。
ふわり、と足が受け止められ、次いでくきり、とこめかみに響く独特の感触。そっと足を持ち上げれば、そこに弥吉の小さな足の印が残されていました。
弥吉は嬉しくなって、もう一歩踏み出そうとします。
その時、兄ちゃんが土間から顔を覗かせました。
「弥吉、外で遊んでもいいけれど、遠くへ行ってはいけないよ」
弥吉に言いながら、その手は手際よく絞った手拭いを広げています。
「兄ちゃんは手が離せないから、声の聞こえるところに居なさい。今日もまだ、雪が降りそうだし」
そう言いつけると、すぐに顔を引っ込めて中へ入っていきます。
兄ちゃんは、妹のさよの看病に忙しいのです。小さなさよは風邪をひいて、高い熱を出して寝込んでしまったのでした。
弥吉はしゃがんで、雪を掬いました。きゅっと力を込めて丸めます。
さよにもこの雪景色を見せてやりたい。
そう思いましたが、残念ながらさよはまだ起き上がれませんし、風邪ひきに冷たいものを近づけるのはよくありません。仕方なく、弥吉は小さな雪玉を二つ作り、重ねて目と鼻をくっつけました。これが溶けきる前にさよが元気になりますように、と願いながら。
暫くそうして家の周りで雪遊びをしていた弥吉ですが、段々つまらなくなってきました。面白いことを探して辺りを見渡す弥吉の視界には、一面の雪が映っています。
――少しだけ。
弥吉は少し向こう、まだ誰の足跡も付いていない新雪に足を下ろしました。
真っ白な中に、ぽつんと弥吉の足跡が残ります。
弥吉は更に、できるだけ遠くまで跳んでみました。白い絨毯の中に、一つだけくっきりと残る弥吉の印。もっと遠くまで跳んでみよう、と弥吉は更に先の雪を見つめました。
――もう少し。もう少し。
いつの間にか家から随分離れてしまったことに、弥吉は気づきません。
またちらちらと雪が舞い始めるなか、弥吉はまっさらな雪を追いかけて山の方へ入っていきました。
気づけば、疎らに舞うだけだった雪は数歩先の視界を白く煙らせる程になっていました。慌てて振り向いた弥吉の目に映ったのは、立ち並ぶ木々と、新しい雪に塗り潰されかけている足跡でした。
さぁっ、と弥吉の顔が青ざめます。
急いで前の足跡に駆け寄りますが、その更に前の足跡は既に何処にあるかわからなくなっていました。視線を持ち上げても、木々の枝と雪しか見えません。
――どうしよう。
弥吉は泣きそうになりました。兄ちゃんの言う通り家の傍に居れば良かったと思っても、後の祭です。
とにかく何とかして帰り道を探そう、と弥吉はもと来たとおぼしき方向へと歩き始めました。
どれ程歩いたでしょうか。
真っ白だった弥吉の視界に、ちらりと別の色が映りました。
赤です。
白い雪の合間に、何やら赤い色が見え隠れしているのです。
それに気づいた弥吉がよく目を凝らしてみると、それは鳥居でした。
小さいけれどしっかりと組み上げられた、朱色の鳥居です。
――誰か人がいるかもしれない。
そう思って駆け寄った弥吉の目に入ったのは、人気の無い寂れた神社でした。
「誰か、いませんか」
呼び掛けてみるも、返ってくるのは静寂ばかり。弥吉は肩を落とし、とぼとぼと拝殿の前まで進みました。
雪の中歩きづめで疲れましたし、お腹も減っています。
静まり返った拝殿を前に、弥吉は手を合わせました。
「神様、お願いです。うちへ帰らせてください」
今頃、きっと兄ちゃんは心配しているに違いありません。ひょっとしたらさよだって、弥吉が居ないことに気づいて不安になっているかもしれないのです。
「お願いします。どうか」
「……迷子?」
不意に背後から聞こえた声に、弥吉は勢い良く振り返りました。
そこには、いつの間にやって来たのか、髪の黒い男の子と、色素の薄い女の子がいました。この雪の中だというのに二人とも着物一枚で、しかし寒さに震えることもせずにしっかりとお互いの手を握り合って立っています。
弥吉は顔を輝かせました。
「君たち、村の子?村までの道を知ってる?」
弥吉が意気込んで尋ねると、二人は顔を見合わせました。それから、女の子の方がぽつりと答えます。
「……知ってます」
「本当?よかったぁ」
弥吉はほぅっと息を吐きました。彼らが村への道を知っているのなら、案内して貰えば家へ帰れます。
「ぼく、迷っちゃったんだ。村まで案内してよ」
弥吉が頼み込むと、二人はまた顔を見合わせました。それから、今度は男の子の方が言います。
「吹雪……危ない。少し、待たないと」
彼の言う通り、雪は激しさを増し、どこまでも真っ白な世界が神社を囲んでいます。目を凝らしてみても僅かに森の木が見えるだけで、到底あの中を歩けそうにはありません。
さっきまであんなに降っていなかったのに、と肩を落として、弥吉は拝殿の石段に座り込みました。
弥吉と二人の子どもがいる場所は拝殿の屋根に守られていて、ひとまず雪をしのぐことができます。
――早く小降りになってくれるといいけど。
溜息を吐いた弥吉は、手を伸ばして雪の薄い地面から石を拾いました。
二つ、三つ、四つ。
「……何、してるんですか」
女の子が不思議そうに尋ねます。弥吉は拾った石を手元に並べ、なるたけ平たい石を選んで真中に置きました。
「石積みだよ」
そう教えて、弥吉は今しがた置いた石の上に、別の石を乗せます。
「ひとつ、ふたつ」
積みあがった数を数えながら、さらにもう一つ。
「みっつ」
弥吉が石を積み上げていくのを、二人は興味深げに見つめています。
弥吉は少しばかり得意になりました。実はこの石積み遊びは、弥吉の兄ちゃんが弥吉に教えてくれたものです。暇を持て余したとき、一人で遊ぶとき、弥吉はいつもこうして石を積むのです。
「よっつ、いつつ」
いくつも石を積み上げていくのは、単純に見えてなかなか難しい作業です。特に平たい石の少ない場所では、二つ三つ積み上げるのにもひどく苦労することだってあるのです。
「むっつ……ななつ!」
七つ目の石を乗せて弥吉が手を放した瞬間、石の塔がぐらりと揺れました。
「あっ――」
しゃがみこんで弥吉の石積みを見ていた男の子が、小さく声を上げます。弥吉はじっと息を殺して、塔が持ちこたえるよう祈りました。
やがて、揺れが止まります。
石は七つ重なったまま。
誰からともなく、溜息が零れました。
「やっつ目は、無理そうだなぁ」
弥吉は呟いて、試しにそっと小さな石を天辺に乗せてみます。
その瞬間、積みあがっていた石は均衡を崩し、ばらばらと崩れてしまいました。
「あ……」
二人の子どもが、酷く残念そうな顔で散らばった小石を眺めていることに、弥吉は気づきました。少しだけ考えて、持っていた石を二人に渡します。
「ひまなら、やってみなよ。とおまで積み上げられたら、兄ちゃんが褒めてくれるんだ」
何しろ、小石を十個、崩さずに重ねることはなかなか難しいのです。弥吉は時々しか成功できません。けれども十個積みあがった石を兄ちゃんに見せて、兄ちゃんに頭を撫でてもらうひと時が、弥吉は大好きなのでした。
「とお……?」
男の子が首を傾げます。
どうやら、彼はとおまで数を数えられないようです。女の子も同じようで、男の子と一緒にしゃがんだままじっと弥吉を見上げていました。
弥吉は急に自分が大人になったような気がして、いつもより少し澄ました顔で咳払いなどして、小石を手に取ります。
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお」
数えながら、石を並べました。十個一列に行儀よく並んだ小石たちを、二人は物珍しげに見ています。
「これ全部でとおだよ。これを全部積み上げるんだ」
「……全部」
男の子が目を瞬かせながら呟きます。弥吉は胸を張って頷きました。
「とお積むのは難しいからね。しっかり練習しないとできないよ」
そんな風に言って、二人を見下ろします。二人は顔を見合わせると、こくりと頷きました。
「ん。がんばる」
「がんばります……私たち、暇ですから」
そんな二人の様子に、弥吉は首を傾げます。今更ながら、不思議になってきました。
この子たちは、どうしてこんな人気のない山に、子ども二人だけで居るのでしょう。
「あの……」
弥吉が質問しかけたのを遮るように、女の子が立ち上がりました。
「行きましょう。雪、小降りになったみたいです」
男の子も立ち上がり、四つの瞳が促すように弥吉に向けられます。
「……うん」
何も言えずに弥吉は頷き、彼らと一緒に歩き始めました。
山道と呼ぶには平坦な道を、三人は静かに歩いていきます。
さっきよりずっと小降りになったとはいえまだやむ気配を見せない雪が、三人の頭に、肩に、少しずつ積もってゆきます。
「ねえ」
白い息を吐いて襟巻を掻き合わせながら、弥吉は二人に問いかけました。
「寒くないの?」
二人は振り向いて、一様に首を傾げます。
「寒い……?」
「うん」
男の子の問いかけに頷いて、弥吉は鼻をすすりました。
「だって君たち、蓑も襟巻もしてないし、着物だって薄っぺらじゃないか。寒くないの?風邪をひくよ」
兄ちゃんのお下がりの特別長い襟巻をぐるぐるに巻いている弥吉ですら、今日は寒いのです。着物を一枚着たきりの二人が平気な顔をしているのが、不思議でたまりません。
「……平気」
ややあって、女の子が答えました。
「慣れてますから」
弥吉はちょっとだけ悲しい気がしました。薄い着物一枚で真冬の雪の中を歩くのに慣れていると、二人は言うのです。
二人の母ちゃんは、二人を心配して上着や襟巻を縫ってくれたりはしないのでしょうか。
父ちゃんは、風邪をひかないように蓑をこしらえてくれたりはしないのでしょうか。
「着いた」
弥吉がぐるぐると考えている間に、男の子がそう言って足を止めます。はっと顔を上げてみると、村はずれのお地蔵様が弥吉の目の前にありました。
「ここからは、大丈夫ですね」
女の子が言います。弥吉が頷くと、二人はすぐに引き返そうとしました。
「あ……待って」
弥吉はとっさに二人を呼び止めました。
何となく、このまま帰すのは気分が悪かったのです。そう、弥吉はまだ、二人にお礼をしていないのでした。
とはいえ、迷子になっていた弥吉の懐に、二人にお礼としてあげられるようなものが入っているわけもありません。
「あ、えっと」
困った弥吉は、ふと思いついて、自分の襟巻をほどきました。
「これ、あげる」
目を瞬かせる男の子の首に、まず端の方を巻きつけます。
「道案内してくれたお礼。やっぱり君たち、寒そうだよ」
兄ちゃんがくれた特別長い襟巻は、男の子の首に巻きつけてもまだまだ余裕があります。弥吉はその反対の端を、今度は女の子の首に巻きつけました。
「ほら、あったかいだろ?」
二人が顔を見合わせます。女の子が襟巻に触れ、ぽつりと呟きました。
「……あったかい」
弥吉はにっこりと笑います。
自分の首はすうすうしますが、目の前の二人が無表情ながらもどこか嬉しそうに襟巻に首を埋めているのを見ると、襟巻をしていた時よりも何倍もあったかい気持ちになれるのでした。
「ここまでありがとう。じゃあ、またね」
二人に手を振って、弥吉は背を向けます。
数歩、駆け出してから、何気なく振り返りました。
振り返ったことに、特に意味はありません。
ただ本当に何気なく、後ろを振り向いたのです。
「……あれ……?」
弥吉は首を傾げました。
弥吉が進んだのはたった数歩。時間にして数秒にも満たなかったはずです。
それなのに、そこにもう二人の子どもはいませんでした。誰もいない山道に、ただ静かに雪が降っているだけです。
「どこ、いっちゃったんだろう……」
弥吉が呟いた時。
「弥吉!」
後ろから、弥吉を呼ぶ声がしました。ずいぶん久しぶりに聞く気がする、耳に馴染んだ声です。
「兄ちゃん」
「弥吉、どこへ行ってたんだ」
兄ちゃんは息を切らして、弥吉を叱りつけました。どうやら、弥吉の姿が見えないことに気付いて探し回っていたようです。
「ごめんなさい」
弥吉は素直に謝りました。ほうっと安堵の息を吐いた兄ちゃんが、弥吉の手を引きます。
「帰るぞ。ようやくさよの熱が下がったんだ」
そう言って、兄ちゃんは歩き出します。一緒に歩きながら、弥吉はもう一度山を見ました。
「兄ちゃん、ぼく、山の中で道に迷ったんだ」
ぽつり、と、今日あったことを口にします。
「そしたらね、白い女の子と黒い男の子が、お地蔵さんまで案内してくれたんだよ」
「そうかい、そりゃよかった」
弥吉の頭を撫でた兄ちゃんが、ふと目を瞬かせます。
「おや、弥吉。お前、襟巻はどうしたんだい」
今朝弥吉の首を囲んでいたはずの襟巻が、今はありません。弥吉はにこりと笑いました。
「あげたんだ。お礼に。寒そうだったから」
「そうかい。じゃあまた新しいのを母ちゃんに作ってもらわないとな」
苦笑交じりに言った兄ちゃんは、自分の襟巻をほどいて弥吉の首に巻いてくれました。
「でもね、不思議なんだよ、兄ちゃん」
「ん?」
兄ちゃんに襟巻を巻いてもらいながら、弥吉はお地蔵さんの方を指さしました。
「ぼくが振り返ったら、二人とももう居なかったんだ。変なの」
弥吉の指先を辿った兄ちゃんは、小さく吹き出します。
「はは。狐にでも化かされたのかな」
笑って弥吉の背を叩き、歩みを促します。
「化かされてなんかないよっ」
言い返しながら兄ちゃんと一緒に家路に就いた弥吉は知りません。
弥吉の迷い込んだあの神社の狛犬の首に、特別長い襟巻が巻き付いていることを。
その後、神社の傍を通り掛かった人々は、数を数える幼い声を聞いたと言います。
「ひとつ」
「ふたつ」
「みっつ」
「よっつ」
「いつつ」
「むっつ」
「ななつ」
「やっつ」
「ここのつ」
「……とお!」
実は筆者サイトに掲載している作品と微妙にリンクしています。が、童話としてはこれ単品でお読みいただくのがよいかと。
ここまで閲覧ありがとうございます。