少女の病状、状弱な状況
気づけば、もう一通メールを着信していた。
お兄ちゃん……和真お兄ちゃんからだ。
内容は「今日の会議を始めよう。今家の前にいる」だった。
会議、というのは私とお兄ちゃんの二人で、どうすればお姉ちゃんの病気が治るのか、またこれからどのように対処していくのかということを話し合うことである。
私は玄関まで小走り、扉を開けるとそこにはお兄ちゃんが立っていた。
「……メールを送ったはずなんだがな」
「ごめんなさい……ちょっとうっかりしてて……」
本当は変なメールが来たことでちょっと慌てていた。
いつもこの時間にお兄ちゃんが会議のためのメールを送ってくるのをすっかり忘れていた。
私はとりあえずお兄ちゃんをリビングへ招き入れると今日の報告を始めることにした。
「……優は、今日はどんな感じだった?」
表情は見えない。
ただ、淡々と私に尋ねる。
だから私もただ、答える。
「いつもながらに多少の認識のズレが……あと、ちょっと気になることが……」
「気になること?」
振り向いたお兄ちゃんの表情は意外そうな顔をしていた。
私は今日の出来事で気になったこと……つまり、あのテレビを見ていた時の出来事について口を開いた。
テレビを見ている最中に急に認識のズレが起きたこと。そして……。
「お姉ちゃんは"ナナ"って呟いてた」
「ナナ?」
「その後すぐに「覚えている。見えている。私の大切な……」と呟いていました」
「覚えている、見えている、大切な……」
お兄ちゃんはすっかり考え込んでしまった。
私も一緒に思考を張り巡らせるが、解決の糸口は見えない。
「それって、人なのか?」
「だと……思います……」
「もしかしたらそれは……妄想友人《イマジナリーフレンド》かもしれない」
「妄想友人……ですか?」
「ああ、幼児期の女性にたまに見られる症状だ。架空の友人が頭の中だけに存在する精神疾患」
「それなら、宮子さんと春香さんが既にいるらしいですけど……」
「優のその口ぶりからすると、そんなことよりも更に重要なことなんだろう」
更に重要なこと……?
今までの妄想友人の二人の扱いとなにが違うのだろう?
「今までの二人の存在は優の"一人しかいない寂しさからの脱却"を表したと医者は言っていた。だが、今回のそれは明るい性格の"設定"である優の世界定義を自ら壊しているようにみえる」
「自分から……ですか?」
「そうだ、優には解離性同一性障害や精神分裂病といった兆候も後に見られるかもしれないと聞いている。今、優はそれに近い……もしくはそんな症状が発生しているのかもしれない」
「そんなっ……だったらなおさら治療を急がないと……」
「いや、むしろこれはいい兆候なんだ。言ったろ?"優は自分が望むままの世界で、想像した設定で日常を過ごす"んだ。もしお前が何でも願いを叶えられるとして、そんな病状を抱えた日常なんて想像するか?」
私は首を横に振る。
そんな世界、断じて創造したりしない。
「そう、むしろこの病状は俺たちの見る現実世界の優の症状だ。それをあいつは自分で少しずつ理解している」
そうか……お兄ちゃんの言いたいことがわかった。
つまりは……。
「お姉ちゃんの様子はおかしく、元気が無くなっていく度に少しずつこちらの世界に近づいてくるんですね?」
「そうだ、今まで認識できていなかった"トラウマ"を自覚できるようになり始めているんだ。そのナナという存在は恐らく、優からすればなんなのかわからない恐怖を紛らわせるための、防衛線の意味合いを持っているんだろう」
お姉ちゃんが回復傾向に向かってきている。
私はそれが嬉しいはず……嬉しいはずなのに、あんなに思いつめたような……元気のないお姉ちゃんも見たくなかった。
そんな……複雑な気分を抱えてしまっていた。
「あ、そうだ……あともう一つ……」
そう、次はお姉ちゃんには関係ないかもしれないが、私が抱えた問題。
電脳の少女からの謎のメール。
そのことについて相談しようと思った、そのとき。
「和真っ!」
「……っ!?」
思わず、息を呑んだ。
お兄ちゃんの名前を呼ぶ、その声の主はお姉ちゃん。
どうして……?
お兄ちゃんの姿はお姉ちゃんには認識されないはずじゃ……。
というよりも、"和真"って……どうして呼び捨てに?
そんな色々な考えを張り巡らせていると、お兄ちゃんは口を開いた。
「え? ああ、こんばんは"水無瀬"」
私はさらに混乱した。
どうしてお兄ちゃんは不思議がらない?
どうしてお姉ちゃんを水無瀬って……?
「悪い水無瀬、俺もう帰るから……じゃあまたな」
そう言ってお兄ちゃんが出て行こうとする肩を、お姉ちゃんが掴み静止させる。
「ちょっと待ってよ、なんであなたがここに?……それもIRIAと」
……お兄ちゃんをまるで珍しがらない。
いや、確かに珍しがってはいるのだけれど……なにかおかしい。
「まあ……ちょっとな。もう帰るわ」
そう告げると、お兄ちゃんはお姉ちゃんの手を振り切って家を出て行った。
お姉ちゃんはそれを見送り舌打ちをすると、今度は私に振り返る。
……なにか聞かれる。
私はなんと答えたらいいのだろう?
「ねえIRIA、和真と何の話してたの?」
……お兄ちゃんのあの対応は、なにかを……このお姉ちゃんの違和感を察知していた行動に見えた。
だから私は下手なことを言わないようにする。
「……すいませんお姉ちゃん」
「どうやら言えないことらしい。ロボットにプライバシーはいらない、とまでは言わないけど私一人蚊帳の外みたいでおもしろくない」
お姉ちゃんの、いつものモノローグのような語り。
心の中の声。
私のことを気にかけてくれているんだ……。
「そう……じゃあ私お風呂に入ってくるね」
それだけ告げられると、お姉ちゃんはリビングから出て行った。
……お姉ちゃんになにが起こっているのか、私にはなにがなんだかわからない。
「……ワールドライン……プログラム」
ふと、急に思い出したあのメールに書いてあった単語を呟く。
今日は聞けなかったけど、明日お兄ちゃんに聞かなきゃ……。
それまでは、このメールには関わらないで置こう……。
そうして私は携帯をしまい、明日のご飯の用意を少しだけして、寝ることにした……。