運命を受け入れた時の話
水無瀬優紀。私のお姉ちゃん。
その姉は自分の見ている視界……すなわち世界を変えてしまうフィルターをかけてしまったという。
姉の見ている世界と真実の世界は違う。
私とお兄ちゃんは姉の社会復帰を手助けするために芝居をうたなければならなくなった。
なぜそうしなければならないのか。
例えば、姉の世界では私はロボットとして認識されている。
しかし私は本当は人間であり、ロボットではない。
そこで私がお姉ちゃんの前で食事をしたとしよう。食事などできないロボットが、だ。
するとどうなるのか。
"姉の世界の中でもっとも自然な形でその事柄が認識される"のだ。
まあつまり私が食事をして、「ほら、人間だよ」と言っても"ロボットがノイズを出していて何を言っているのかわからない"等の理由でのらりくらりと避けられる、ということだ。
しかしそれは認識の誤りを強制的に捻じ曲げてしまうことである。
それはすなわち脳に多大な負担をかけてしまうことになり、症状が悪化してしまう可能性がある。
だから私はお姉ちゃんが頭の中で描いた通りの世界の住人として演じることになったのだ。
お姉ちゃんの世界をまとめてみるとこんな感じ。
・基本的に世界設定は現代と同じ。しかしお手伝いロボット制度なるものが存在しており技術レベルはどうやら向こうの方が上らしい。
上記の理由から、身内の私はロボットと扱われるようになったらしい。
・姉は五体満足である。無くなった右腕は存在していると認識されているらしい。認識の齟齬が発生しないように姉が右腕を使おうとしたら手伝ってやらねばならない。
精神的にも活発な少女である。
・宮子と春香、という同性の友達がクラスメイトとして存在しているらしい。返事の受け答えなどはすべて姉の脳内で完結しているらしいので対処としては特になにもせずとも問題はない。
・PPファイト、という格闘ゲームのチャンピオンだという設定らしい。このため週に何度か通ったこともないゲームセンターに足を運ぶという。
・私は妹ではなく、いない親代わりに雇ったお手伝いロボットとして認識される。そのため人間のような行動は控えなければならない。
・兄は認識されなくなったという。すなわち、兄は姉の前に姿を現してはいけない。
・地元の地形が今から8年ほど前に見えているという。近日、自宅のすぐそばに建築されたアパートは認識されていないので兄はここに住むことになる。
・時々、"ナナ"という言葉をつぶやく。理由は不明だが前述した架空の友達とはまた少し違うらしい。
・たまに空を飛ぶらしい。一見、意味不明だが一応本人はそういっている。
・運動神経もなかなかのものらしい。しかし実際とは異なる体の動きをしてしまうため車いすにて抑制する。
押してあげると自分で歩いていると錯覚しているようだ。
・車いすに乗っている間は私の姿を認識しない。理由は今のところ不明だがどうやら車いす搭乗中は自分で歩いていると認識しているための脳内処理と思われる。
この性質を利用して日常生活の世話をすることにする。
……以上がだいたいの姉の脳内の設定である。
まだ他にどのような設定があるかは不明なのであまり無茶な行動はしないように、と医者に言われた。
病院のフロントにある長椅子に座りぼーっとしている姉を見て私は唇をかみしめ、歩み寄る。
姉がこっちを見ている。
その目に映るものは妹としての私ではなくて……ロボットである私。
なんと声をかけたらいいのだろう?
考えろ、私。
私はロボット……ロボットなのだから。
「……帰りますか?」
敬語を使ってみる。
なぜ敬語なのかは、昔読んだSF小説のロボットは敬語だったからという単純な理由からだ。
「……うん」
姉はそう頷くとさっさと歩きだそうとする。
私はあわてて制止させると姉を車いすに座らせ、私は後ろから車いすを押す。
そして病院を出ると家を目指して私は歩き始めた。
「ねえ……IRIA」
「……っ!……はい、なんでしょうか?」
――IRIA。
それが私の名前。
「なんで私はあんなところにいたんだろう?」
それはつい先ほどまでいた病院のことを指しているのだろうか?
私はなんと答えればいいのか戸惑って口を濁してしまう。
「私ね、思うんだ」
カラカラ、と車いすが動く音だけが鳴る。周りの雑音はない。ここは私たちだけの世界なのだから。
「今ここにいる私は3分くらい前に神様によって記憶とかそういうのをうまいこと作られて存在してるって言われたら多分信じるよ」
「……えっ?」
その言葉はまさに今の状況の的を射ていて。
私は思わずルールを忘れてしまう。
「そうですっ……いや、そうだよお姉ちゃん!」
「IRIA……?」
「お姉ちゃんは、お姉ちゃんの記憶はちょっと前に作られて、本当の世界はっ」
「あははっ、ごめんね。IRIAには難しすぎた話かな? 私のこと"優紀ちゃん"なんて呼ぶなんて可笑しいの。それにノイズだらけで何を言ってるのかわかんないよ」
くすくす笑いながら姉は言う。
……そうか。
――認識の曲解。
姉の世界が崩れぬように脳が強制的に行う、いわば防衛反応。
これが発動してということはつまり、症状はさらに悪化してしまったということ。
私は少しでも症状を和らげようと、どんな言葉をかければいいのかと模索した。
「わ……私はずっとお姉ちゃんって呼んでますよ?」
その結果が、これ。
現実を認めたくない私とロボットに徹しようとする私の入り混じった中途半端な言葉。
姉を姉と呼び、そして敬語を使ってみる。
……私は、きっとお姉ちゃんって呼び方だけは変えたくなかったのだと思う。
私がどれだけ役を演じようと、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから……。
「あ、そうだっけ? ごめんごめん、なんか最近度忘れがひどくてね」
姉は簡単私のことを信じて自分の度忘れの件について苦笑する。
「いつかきっと、思い出せますよ」
その言葉はもっともっと別の意味を含めて言ってみた。
いつかきっと、こっちの世界のことを思い出せるよ、と。
「そうだね……思い出せたらいいなあ」
思い出せる、思い出させてみせる。
呑気に鼻歌まで歌う姉に微笑みかけながら私は心の中で決心する。
今、すぐそばを駆け抜けていった車の雑音は姉には聞こえたのだろうか?
姉が見ている空の色は、私の見ている空と同じ色をしているだろうか?
私の思いは……姉に届くだろうか?
……これが私が運命を受け入れた時の話。
そしてここから最後の結末があんな風になってしまうなんて、私は思わなかった。思いたくもなかった。思ってしまった。