ロボット、笑った。泣くのをやめた。
そしてとある日、錯乱状態になった姉は兄を野球に使う金属バットで殴打してしまった。
これは兄が小さい頃にクラブで使っていたものだった。
姉は我に返るとショックで倒れ、私が電話して二人共病院へいくことになった。
待合室にて待っているとそこに現れたのは手術を終えたらしい兄の和真だった。
「心配かけたな、愛」
頭にはなにやら大掛かりな包帯が巻かれており、その余裕のある表情とは裏腹に傷の深さがうかがえる。
「おねえ……ちゃんは?」
兄はどうやら無事のようだが、倒れた姉はどうなったのだろうか?
私はそれが心配でたまらない。
「優はな……病気、らしい」
お姉ちゃんが病気?一体どういうことだろう?
首をかしげる私に兄は言葉を続ける。
「"ドランカー"……それが優の病気の名前。今から言うことは病院の先生の受け入りだけど、よく聞いてくれ」
私はただこくん、と頷いた。
「"世界とは、人の数。見ることのできるだけ数がある。"僕や私やあなたや君の見る世界はそれぞれ微妙なズレがある。個人差とはそういうことだと思うんだ。例えば空だ。空は青いけれど、その青は俺が見ているものとお前が見ているものと同じ青なのだろうか? 実は全然違うものを青だとお互い認識しているだけなんじゃないだろうか」
そこまで言うと兄は一度言葉を切り、私を見やる。
私は黙ってこくん、と頷いた。
「生きている中で、人は"嫌"という感情を感じる。それは当たり前のことだ。その"嫌"を乗り越える方法は人それぞれだがその方法の一つに楽しいことを考えるというものがある。いわゆる空想や妄想に値するものだ。人間誰しもが「もしもこうであったら」とか「こうなったらいいな」ということは考えたことがあるはずだ。ただしそれはただの一時の考えでありリアルではない。でも、優はあまりに過度なストレスを受けてしまったせいでその妄想が優にとってのリアルになってしまったらしい」
妄想が現実に。それがドランカーという病気の正体だろうか?
「ドランカーはすなわち妄想そのもの。誰しもが持っているものだが優は……それが大きすぎた。この間まで使用していた薬の禁断症状も相まって……優はこの世界に嘘をつき始めたんだ」
いまいちよくわからない。
私は兄につまりどういうことなのか簡潔に話してほしいといった。
すると兄はわかった、と頷くとまた話し始める。
「優はもう俺の存在が見えないらしい。そして愛、お前は妹として認識されない。お前は優の世界でいうお手伝いロボットだと認識される」
それはあまりにも唐突な。
「あいつは自分の中に自分の世界を作った。そこに本来の俺たちはいない」
存在の全否定。
姉に認められない世界は姉の中で動き出す。
そこに……私たちはいない。
私はあまりのショックに床に膝をついてしまう。
"私"を"私"として認識してくれない? だったら私は一体なんだというのだ?
「これから俺たちは優のために一つ芝居をうつ。……この意味がわかるな?」
……わからない。どうして、どうしてこんなことになってしまったのか。
「俺は優の世界(視界)から消える。これからは愛、お前が一人で優を手助けしなければならない」
……無理だ。
私はピエロではない。
お手伝いロボットになれ? それこそ私は……私は。
「操り人形じゃない……!」
「愛……」
でも、それでも私は……演じなければならない。
愛する姉、優紀お姉ちゃんの為に。
私は自分の胸に手を当てる。
……鼓動。それはまぎれもなく生きている証。
そして……それは今ここで潰える。
「今ここで私、水無瀬愛璃は死んだ。今ここにいるのは……」
……人形。
「……さようなら、愛璃。そして」
きっとこれが最後に流す涙になるだろう。
ロボットなのだからこれから未来永劫、涙も流さないし、笑いもしないし、電気羊の夢も見ない。
「優を頼んだぞ……"IRIA"」
なるほど……AIRIの逆読み、IRIA。
裏返し(Reverse)の私を表すにちょうどいい。
こうして私はロボットになった。
そうして兄は世界から消えた。
私が求めていたのは幸せじゃなかったのに。
私は"普通"が欲しかっただけなのに。
「…………ふふ」
涙は枯れたのか、それともロボットだから流れないのか。ただ、笑った。
ロボットなのに、まだ笑えた。
そんなみじめな私が、笑える。滑稽だ。