RequiemⅧ
「聞いて……ください、マスター」
ジリジリと、ノイズ交じりの声で話すIRIA。
「……なに?」
震えた声で、私は問う。
これからIRIAが話そうとしていることは……私の日常を破壊してしまうものではないかと。
ただ……そんな気がする。
「あなたの世界はもうすぐ崩壊してしまう。そして次に目が覚めた時、真の世界はあなたを裏切るでしょう。あなたは一人になる。でももう逃げることは許されない」
IRIAが告げた言葉……それは確かに私が思い描いていたことと同じだった。
「一人にって……IRIAは?」
「どうでしょう……私は"あなたが想像で生み出した存在に過ぎない"ので真の世界にどういう形で存在しているかわかりません。この言葉だってあなたが喋らせているようなものですよ」
「私が尋ねて私が答える……自問自答?」
「そういうことになりますね。ただこうしてかなり特異な設定でここに存在しているということは真の世界で今の私のモチーフになっている人物くらいはいるかもしれませんよ」
「IRIA自体はいないの?」
「わかりません……今のこの世界と真の世界でどれほどの違いがあるのかが把握できませんので」
「……そう」
IRIAは言った。
次に目覚めるときは私は一人かもしれないと。
世界は私を裏切ると。
逃げることは許されないと。
IRIAは……いないかもしれないと。
そんな世界で私はどうやって生きていけばいいのだろう?
「生きるということは楽なことばかりではないのです。これからは辛いことを経験しなければなりません。……夢は、いつか覚めるのです。」
IRIAは真剣なまなざしで言った。
今まで……私は楽をしてきたということらしい。
「それも私の想像した言葉?」
「いえ、"私"の言葉です。意思くらいはありますよ、私でも」
つまり……この世界は私の思い描いたようにしか動かない、というわけではないらしい。
「IRIAは言ったね、夢はいつか覚めるって。これは夢……なの?」
「ええ、似たようなものです。……ただ、私は夢の中で……この数日で感じたことがあります」
感じたこと?
私の想像によって作られたというIRIAの……自我。
一体何を感じたというのだろう?
「……楽しかった。そして……幸せでした。ずっとこの日常が続けばいいと思っていました」
「ずっと……ここへ居ちゃいけないの?」
IRIAだってこの日常が続けば良いと思っていたのなら、ずっとここに居ればいいじゃないか。
真の世界だかなんだか知らないけど、辛い思いなどしなくてはいいのでは?
「……戻ってきてほしいと願う人がいたから。その呼びかけがあったから……今こうして虚偽と真実の境界線上に存在しているのです」
「真の世界には私に戻ってきてほしいという人がいるってこと?」
「はい、私はずっとその人の思いを聞いてきました。そしてその思いを叶えてあげたくなったのです。それが私の消滅を意味するとしても」
「私が元に戻ればこの世界やあなたは消える……そんなのでいいの?」
「はい……私はずっと……境界線上からあなたを見守りますから」
「嫌だ……離れたくない……」
「大丈夫……間接的にですが私はあなたにメッセージを伝える手段があります。それで連絡しますから……二度と会話できないわけではないのです」
「間接的にって……?」
「日常で使うものから私の意思を伝えるのです。そうですね……ならこの言葉をよく覚えてください」
「ナナ」
「この言葉をよく覚えて、向こう側でこの言葉を聞いたらそれは私です。私からのメッセージなのでちゃんと聞いてくださいね?」
ナナ……ナナ……。
ナナの言葉をきちんと聞く……ナナの言葉をちゃんと聞く……。
何度も何度も心の中で念じて、心に刻み付ける。
「その言葉を決して忘れないで下さい。そして……私のことも」
「忘れない……絶対忘れたりなんかしない!百年だって千年経ったって、別の世界にいったって忘れないよ」
忘れない……忘れたりなんかするものか。
どんなことがあったって……忘れたりなんか。
「では、これからあなたにかかっているフィルターを外します」
「フィルター?」
「ええ、厳密にはあなたがかけた"フィルター"ですが。これが嘘の世界に見えてしまう原因なのです」
「でも、IRIAを見ることのできる唯一の方法……」
「そうとも言いますね。でもこれは本来必要のないものです。あなたはこれから"本来の日常"に戻ります」
本来の日常……今ここにあるものではなく、真実の私の日常。
それは果たして取り戻すべきものなのだろうか?
「決して……絶望しないでください。私は見守り、少しのメッセージを送ることしかできませんが……ずっと御側にいますから」
「IRIA……私……怖い」
「あなたなら大丈夫……きっと乗り越えられる……」
IRIAは私の首に腕を回すと私を引き寄せ抱きしめた。
「あなたと過ごした数日間はとても有意義なものでした……"無"から生まれた私でさえ涙を流すことができたのですから」
IRIAの言葉に私ははっとして、その顔を見てみるとロボットであるIRIAの目から涙がこぼれだしていた。
「私のこと……忘れないでください……」
「IRIAっ! 待ってIRIA……」
「――さようなら」
――プツンッ――
「あれ……ここは?」
私は眠っていたのだろうか、頭がぼんやりしていてここがどこなのかわからない。
自分の身体を見てみる。
いつもどおり、あの時事故で失くした右腕が無いのも、車椅子に乗せられているのも同じ。
そして……身体的障害を持つものの証である赤い鈴が首についているのもいつもどおり。
なぜ精神障害を表す青い鈴も一緒についているのかは謎だが、なぜだろう?
これら全ては私そのもののはずなのになぜか違和感がある。
「お姉ちゃん、起きた?」
車椅子を押している人物が私に話しかけている。
振り向き見上げその顔を見ると……。
「――IRIA?……じゃない、よね?」
車椅子はゆっくりと進んでいく。
きっと、いつも通う学校へと進んでいく。
私のそばを吹き抜けるのは風と記憶。
何かを失くした気がする。
それは特別だったはずの何かで、ずっと傍にあったはずの何かで。
この心にある空虚感は私の胸の奥底をきゅっと締め付ける。
忘れてしまったのは日常、取り戻したものは日常。
こんな私は大馬鹿者なのだろうか。
ぽっかり空いた心の中でなにか小さなものを拾い上げた。
――言葉。
それはたった一つの言葉だった。
「――ナナ」
歩きなれたこの道はいつもの道じゃなかった。
私は拾い上げた小さな言葉を忘れないように呟くともう一度眠ることにした。
「さようなら、私の愛した日々よ」
In Paradisum deducant te Angeli;
天使があなたを楽園へと導きますように。
in tuo adventu suscipiant te martyres
楽園についたあなたを、殉教者たちが出迎え、
et perducant te in civitatem sanctam Jerusalem.
聖なる都エルサレムへと導きますように。
Chorus Angelorum te suscipiat,
天使たちの合唱があなたを出迎え、
et cum Lazaro quondam paupere,
かつては貧しかったラザロとともに、
aternam habeas requiem.
永遠の安息を得られますように。
「これは境界線上に立つ君に送る鎮魂歌だ。いつか、真実に辿り着けますように……と」
僕はG線上の少女にそう告げると"電源"を切った。
こうして皆、糸が切れたように動かなくなったのだ――。
これで第一章"片翼の少女編"は終了です。
次回からは数々の謎の解明編、この世界の一連の出来事を別の人物の視点から見た物語が始まります。
では次は第二章"G線上の人形編"で逢いましょう。