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001 :// 初めて人を殴った日 -1-

 テレテンテテテーテレテンテテテー……

 ピピピピ……

 ジリリリリリリ……


 あたたかなふとんから手を伸ばし、寝起きの全く見えない視界の中で3つの目覚ましアラームを順に止める。

 数秒の沈黙の後、ゾンビのような声を漏らしながら重い体を起こし、いつも通りに朝の身支度を開始した。


 黒川杏奈(くろかわあんな)、25歳。

 人並みに友達がいて、人並みに仕事が嫌いな、人並みな会社員である。


 今日は入社からずっと担当している、それなりに大プロジェクトのリリース日。

 杏奈にとって、ひとつの節目となる日だ。






 名前を言えば日本人の6割くらいが『ああ、あの』と言うであろう、IT系メガベンチャー会社に新卒入社し、3年。

 目立たない学生であったのに何故か企画部という花形部署に配属され、3年間だいぶ苦労した。


 それでも頑張ってきた。

 何故なら、杏奈には大きな夢があったからだ。


 ———早期引退して、不労所得でだらだらと余生を楽しむ。


 それが杏奈の夢。

 労働を知った人間の誰もが一度は絶対に考える夢だと思うが、杏奈は本気で目指してきた。


 多くの人間が諦めるが、杏奈は諦めなかった。

 不労所得を得るためには巨額の元手が必要だ。

 学生時代からあまり遊ばず、アルバイトで稼いだお金はひたすら貯金。

 青春を謳歌することと自分の夢との狭間で、時折心が揺れ動くこともあったが耐えてきた。

 会社員となってからも怠けたがる自分の中の悪魔と戦い、耐えてきた。


 それがある意味、解放されるのが今日という日。


 社会の一般常識『新卒入社は3年耐えろ』。


 もう3年耐えた。

 その上で担当プロジェクトがリリースされれば、転職の際の大きなPRになる。


 リリース後は、待ちに待った転職活動を開始する。

 そう、今日こそ夢が始まる日なのだ。

 この報われる時を、ずっとずっと待っていた。


 そして、自分の身を削ってまで温めてきた仕事という名の卵が孵るのも、楽しみである。






 まだ寝惚けてぼんやりしているが、なんとなく心はそわそわしている。


 今の気持ちは、大学受験合格発表の時のソレに似ている。

 長年続けた勉強の答え合わせ。苦労の結果の評価。


(眠い……けど、有給まであと少し…………)


 ついに鏡の前の、力無く目の下にクマをつくっている姿とはサヨナラだ。

 やっと区切りがつくので、大型連休をとった。


 ふらりと旅行に行くのもいい。温泉付き客室でゆったりふやけながら酒を飲むとか。

 食べたことのないグルメを探しにいくのもいい。美味しいごはんは人を幸せにする。

 A5ランク和牛を食べてみたい。お店の人が作ってくれるような高級すき焼きもいい。行ったことのない、回らない寿司も。


 学生時代からあまり遊ばず貯金に励んできたので、少しくらいは使ってもいいだろう。

 片親の家庭で育ったので節制して生きてきたが、そろそろたまの贅沢も許されるはずだ。

 それだけ頑張ったのだから。


 めくるめく妄想にヨダレが垂れそうになり、ハッとした。


「おい杏奈、ヨダレ出てんぞー」

「出てない出てない。朝露だよ」

「おまえは草か」


 とうに身だしなみを整え、自分で焼いた朝食のトーストを口に運ぶ父親が呆れ顔を見せた。


「今日大事な日なんだろ? シャキッとしろよな」

「大丈夫、会社つく頃にはなんかシャキッとしてる気がする」


 ———たぶん一生しないけど。

 その言葉を胸の奥にしまった。

 疲労のあまりに常に物憂げすぎて、アンニュイな杏奈、略して『アンナニュイ』と会社で弄られているのは秘密だ。


「今日は早めに帰ってくるから、夕飯は寿司でよろしくー」

「はぁ、寿司ぃ!?」

「今日が私の解放日なんだからサービスしてよ。特々々上くらいのヤツ買って帰ってきてー。もちろん銀座の回らない店でな」

「特々々上なんて存在あるか? いや、まあいいけどな。たまには」


 仕方ないな、とでも言いたげに父親が苦笑した。

 父親も贅沢が下手な人なので、職場が銀座に近いと言えど不慣れなことは間違いない。

 出社したら同僚にいい店を尋ねてまわる羽目になりそうだが、たまには頑張ってもらおう。

 仕事をしながら家事もしてくれる娘に、たまには感謝を示してもらわなくては。


「じゃあ私行くから。戸締まりよろしくー」

「おうよ。気をつけて行ってこい」

「行ってきまーす」


 何度となく続いてきた、いつもの朝。

 いつも通りの鞄を持って、いつも通りの靴を履き、玄関に手を掛けた。

 がちゃりと音を立て、よく晴れた外気を吸い込んだ時。


 キ———ン


 脳みそを貫通する、異音。

 目の前がぐにゃりと曲がったと思った。


(ん? めまい?)


 次に自分が引き延ばされて、広げられていく感覚に陥った。


(あ……れ……? からだ……どこ?)


 気付けば体の感覚がなかった。


 痛みはない。

 しかし何も見えなくなって、何も聞こえなくなった。


 頭も働かない。

 冷静に状況を判断しようとする思考がぼやけ、まるで眠りにつく直前のように、考えが霧散してしまう。

 明らかにおかしい。

 先程まで、体に何の異常も無ければ、眠気も疲労もいつも通りだった。


 ただ自分の肉体と精神が丸ごと、おかしくなるような感覚。

 感じたことのない感覚に、ただ飲まれていった。



          ■□



『————に——ねく————り』


 真っ白な、何かを見ていた気がする。






「———たな! ———が———か?」

「も————す。こ—————も———ので」

「お、———か! —————し—————」

「りり———す! と———」


 複数の人間の声。

 混濁する頭に騒がしい声が入り込んできて、杏奈は意識を取り戻した。


 ズキズキと痛む頭。

 やがて自分が横たわっていたことに気がついた。


 床は固い上に冷たく、お陰でぼやける思考を呼び覚ましてくれる。

 起き上がって、周りを見渡した。


 そこは、広い石造りの部屋だった。


 いくつものランプのようなものが壁沿いに立てられており、窓がないので薄暗い。

 四方の壁には、びっしりと白い線と文字がいくつも複雑に刻まれていた。 


 猛烈な違和感。


「……ここは……?」


 目が覚めたら白い天井、ならばありがちなものだが。

 言い知れぬ不安に、杏奈は手を握った。


「よくぞ参ったな、勇者よ」


 突然の声に驚き、振り返る。

 何段かの階段があって、その先の奥が高台となっている。

 その中央にはふくよかな中年男性が巨大な椅子に腰掛けていて、まわりにも並ぶ何人かも全員がこちらを見ていた。


 声をかけたのは人々を従え中央で座る男だったようだ。


 薄暗くとも一目でわかるほどの、色とりどりの装飾品に、てらてらと光を反射する王冠。

 中世ヨーロッパを彷彿とさせるようなデザインの服は、原色の青を基調にしている。


 自分の日常とはかけ離れた、怖ろしいセンス。


 その男の周りには、顔にヴェールをした白い法衣のようなものを着込んだ者。

 鎧に身を包み、不安など今まで感じたこともないと言わんばかりの自信に充ち満ちた青年。

 くたびれたローブに身の丈ほどもある大きな杖を持つ、腰が曲がった鼻の大きな老人。


 どの人間も、あまりに『普通』ではない。


 中年男性の言葉と、目の前の人間たちの姿に、杏奈は頭を殴られた気持ちになった。


(いやいやいやいや、待て、落ち着け。そんなことってある?)


 無意識に連想してしまった、アニメや漫画でよく見る光景。

 突拍子もないことを考えてしまった自分を否定しながらも、クリアになった頭が、予測は正しいと肯定してしまう。


(勇者召喚なんてことはない……よね……!?)

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