伸一と大介
1985年5月。箱根、夜明け前。
湿った朝の空気が、芦ノ湖の湖面をわずかに揺らしていた。まだ陽も昇りきらぬその駐車場に、2台のバイクが静かに佇んでいる。
CBX400Fと、CBR400F。どちらも400とは思えぬ存在感を放ちながら、冷えたエンジンの音を残しそて沈黙していた。
CBXに跨るのは、小野寺伸一。甘い顔立ちをしていながら、どこか頼りない瞳が印象的な若者だ。
もう一台、CBRに乗っていたのは海野大介。リーゼントが少し崩れたのを気にして、懐から櫛を取り出し、無言で前髪を整えている。
喧嘩っ早く、腕っぷしも強い。絵に描いたような“昭和の不良”そのものだった。
「……R750、いなかったな」
伸一がぽつりと呟く。
「ああ。最近じゃ“箱根最速”って呼ばれてるらしいな。ま、ただの噂かもしれねえけどよ」
大介は口元を吊り上げ、煙草のフィルターをかじるように笑った。
伸一はうなずきながらも、どこか寂しそうな視線で芦ノ湖の方を見た。
伝説のライダー。姿を見た者は少ないが、その走りを語る者は多い。今、この箱根で走っている誰もが、その影を追いかけているのかもしれない。
「1号線降りるの、ダリィな。ターンパイクで帰ろうぜ」
「……そーだな。二ノ宮のデニーズで朝飯でも食おうや、負けた方の奢りで」
2人はエンジンをかけ、ヘルメットを被った。
ターンパイクの入り口は大観山を登った先にある。夜間は通行止めだが、そんな決まりを守るような連中じゃない。
ゲートは半分開いたまま放置され、まるで「行け」と言わんばかりに口を開けていた。
“軽く流して帰ろうぜ”
“ああ、軽くな”
──が、アクセルを捻った瞬間、その約束はどこかへ吹き飛んだ。
2台のマシンは爆音を残して闇の中を駆け出す。
「軽くねーじゃねえか!」
伸一の叫びがヘルメットの中で響く。
パワーではCBRが勝る。10馬力の差を、伸一は常に感じていた。だが、下りなら──パワー差は関係ない。
伸一の眼が燃えた。全開でコーナーに飛び込み、ブレーキングで勝負に出る。
大介も負けじと加速する。新型CBRとしてのプライドがある。旧車に抜かれるわけにはいかない。
芦ノ湖スカイラインを抜け、長いストレートの先。鋭く曲がる右コーナーにさしかかったときだった。
伸一のCBXが微かに揺れる。フロントに伝わる違和感──
「くそっ、ブレーキが甘い……」
伸一は顔をしかめた。インボードディスク。カッコはいいが、熱に弱いのが難点だった。
「やっぱ、放熱きっついな……」
彼は渋々アクセルを緩めた。CBRが横をすり抜けていく。
――――
「デニーズ!」
大介が叫んだ。
「……俺の勝ちだな」
「ちっ、ブレーキが焼けちまったんだよ。弱点だな、これはもうウルトラマンのカラータイマーみたいなもんだ」
「ヒーローはな、弱点があるからかっこいいんだろ?」
大介は笑いながら、コンビニの前でバイクを止めた。
伸一はため息をついたが、どこか納得しているようだった。
――――
やがて、茅ヶ崎の街に入ると、産業道路の交差点で大介が左にウインカーを出す。手を上げて、軽くバイバイ。
伸一はそのまま直進した。ラチエン通りを抜け、東海岸沿いに建つ古びたパシフィックホテルを通り過ぎる。
少し走れば、見慣れたガソリンスタンドが見えてくる。
「……ダリィな。今日も頑張らないとな」
エンジンを止め、ヘルメットを脱ぐ。
朝の光が、ようやく海を照らし始めていた。