孤独という名の絶望を生きよ
この作品のタイトルは、宮台真司さんの本である『終わりなき日常を生きよ』から取りました。
とはいえ正直なところ、この本についてはほとんど読んでいません。しかし、冒頭に書かれていることから、ある程度何かしらのものを推察することができます。
あなたにとって、日常とは何でしょうか。その日常に対して、どう思うでしょうか?
その日常にはおそらく、尖ったものはないでしょう。今すぐにでも私たち日本人を死に至らせるようなものは、日常にはどこにもありません。しかし、だからこそ、生きることにだんだんと飽きてくるのです。
ここで、この作品の冒頭で自分が言った、「自分のために生きて自分のために死ぬほど人間は強くない」という三島由紀夫の言葉が重なってきます。
つまり宮台真司さんは、このあまりにもつまらない日常が引き起こす問題に、直面してしまったのではないかと思います。
実際、この学者が「つまらなさ」について語っているインタビューの動画を見たことがあって、それは自分の日々に当てはまるものでした。そう、この日常で生きていると、飽きてくるのです。だから私たちには、「終わりなき日常を生きる」覚悟が必要なのです。
それはつまり、「自分のために生き、自分のために死ぬこと」を迫られているということです。
しかし自分は、このことについてもうひとつの側面を述べなければなりません。
それは、「陰鬱」というものがこの世に確かに存在しているということです。
その陰鬱は黒い霧のように私たちの世界を覆っています。それは目に見えない濁った光景を広げ、私たちの心に迫ってきます。だからこそ、果てしなくつまらない日常の中で生きていると、次第に心がその陰鬱に侵食されてしまうのです。
そして自分は、その被害者です。だからこそ、この陰鬱の支配をどうにかしたいと思って、この作品を書き始めたのです。
だからこの「孤独という名の絶望を生きよ」という言葉は、自分への励ましでもあり、そしてあなたへの励ましなのです。
あなたは、ひょっとしたら孤独なのかもしれません。僕と同じように、一人きりで、何をやって生きていけばいいのかわからないまま、ずっとスマホやパソコンの画面を漫然と眺めて、永遠に画面をスクロールしながら生きているのかもしれません。
そうして、もう「陰鬱」というものの虜になってしまって、果てしない虚無感に取り憑かれてしまっていることに対して、一瞬のごまかしを行ってしまっているのかもしれません。
僕がそうですし、あなたもそうなのかもしれません。
だからこそ、この果てしない孤独の世界において、「自分のために生きて、自分のために死ぬ」ことをしながら、この陰鬱から解放される努力をする必要があると、僕は考えるのです。
そしてこの作品が広まることによって、この世の誰かと共にこの困難を乗り越えてみたいと、思うのです。