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日常ってどこにあるんだろう

 ふと、日常について考えた。


日常がどこかに行ってしまって、今はもうないように思える。


幼少時代には、確かに日常があった。木造の二階建ての一軒家で育って、そこで家族と過ごした。父は経営者で、いつも忙しかった。家事のほとんどは母がやった。姉はいろいろと問題を抱えていたが、どこかのんびりとしていた。そんな家族の中で、幼少時代、なんとなく育った。


しかし、いじめによって深い傷を負って、高校を卒業してから茫然としてしまってから、日常というものがどうも、消えてしまったような気がする。


昔の日常は描けそうだが、今の日常は、描けない。確かな輪郭でもって、今ここにおける日常というものが、自分のもとに迫ってこない。


あなたはひょっとしたら気づいているのかもしれないのだが、僕は具体的なことを描くのがものすごく苦手だ。これは、物書きとしての欠点であるとも言えるし、一つの特徴だとも言える。だから、日常の具体的な様子をうまく描き出すことができない。


特に、成人してから大学に通うために、遠く離れたアパートで一人暮らしを送るようになってから、日常の気配がすっかり消えてしまった。


そして、この文章のように、生き方そのものがだんだんと観念的なものになってしまった。とはいっても、これが今では、普通の日々だ。しかしこの普通の日々は、他人から見ればあまりにも抽象的なものだ。だから、具体的な日常など、もはや描けない。



 いったい、日常はどこに行ってしまったのだろうか。もう遠くに行ってしまった。


それを思うと、なんだか懐かしく思えてくる。かつてあったはずのものが、視界にはっきりと浮かんでくる。家族で一緒に夕ご飯を食べながらテレビを見ていたときの光景など、幼少時代の自分の感覚の動きとともにはっきりと思い出せる。


しかしその感覚の動きは、もはや存在しない。


自分の感覚そのものが、成人してから急に、劇的に、抽象的になってしまった。もう日常の手触りを、再び感じることができない。


もしも日常というものに触れたいのであれば、過去の記憶の世界に飛んで、その中に埋没するしかない。


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