1話
トントンッ
遠慮がちに扉をたたく音に、俺はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
日光の筋一本も入らない俺の部屋。
俺が今寝ているベッドと勉強机とテレビ以外には、何もない。
当然ながら、目が慣れていなければ、一寸先すらも見えない真っ暗闇。
俺は布団を顔まで引きよせると、壁側に寝返りをうった。
「あのね、コア。また、依頼がきたんだ。今回は夜に現れる人食い、だって。それでね⋯⋯」
「依頼書、置いといて」
俺がそっけなく言うと、声の主――俺の母さんは、小さく息を吸って、言葉を止めた。
ためらうような気配が、扉を隔ててまとわりついてくる。
⋯⋯なんなんだよ。用が済んだなら、離れてくれよ。
そう口に出すのも面倒で、俺は小さくため息をついた。
十分ほどして、覚悟を決めたように、扉に手をつく音が聞こえた。
「コア。辛いと思うんだけどね、その、私と話をしない? 二年も顔を合わせてないし⋯⋯。きっとね、話して楽になることもあると思⋯⋯」
「うるさい。俺のことは放っておいてくれ」
母さんが、傷ついたように一歩下がる。
話して楽になるなら、心の傷を癒せるなら、あのとき俺は救われていたはずなんだ。
だけど今、家にいるときは、部屋から出ない。
何があったかって? ⋯⋯正直俺自身も、よく分からない。でも、なんとなく思うんだ。
ときには、言葉の解決なんて、できないことだってあるんだよ。
いや、そっちのほうが多いかもしれない。
時間が経てばきっとほぐされるって、そう信じてる。⋯⋯信じるしかないんだ、って。
「⋯⋯ごめんね。依頼、嫌だったらこっちに回していいからね」
母さんは寂しそうな音を立てて、離れていった。
別に、謝ることなんてないのにな。
「ねぇコア。今の言い方はないんじゃない?」
「どこがだ」
「⋯⋯まさか無自覚? 重症だねぇ」
音もなく暗闇から浮かび上がった黒い猫。
俺の使い魔兼、世話係のエルだ。
「いつか戻るといいねぇ。で、今回の任務はどんな? 僕もついていっていいよね?」
「もちろんだ。俺も詳しくは見てないけど、人食いの妖だそうだ。エル、依頼書取って」
「はぁーい」
エルが尻尾をゆらりと振ると、俺の頭の上に一枚の紙が落ちてきた。
またか⋯⋯。俺の頭にのせるのはやめろって、いつも言ってるのに。
紙を手でどかしてゆっくりと上半身を起こし、不満をこめてエルを見下ろす。
エルはいたずらっぽく金色の目を細めると、俺の布団にとびのって、紙をのぞきこんだ。
「人食いの妖、姿は不明、現場は人の少ない村で、ここから三キロメートル、被害者は大量の血痕を残して消息不明、共通点はなし」
「報酬は八十万か。まぁまぁだな」
「コア⋯⋯そういうのばっかり求めるのも、どうかと思うよ」
「なんでだ。これは命がかかってるし、任務なんだから、金を目当てにして何が悪い」
「一理あるけどさぁ」
エルがなにか言いたげな表情を向けてくる。
俺、何か変なこと言ったか?
まさか無料だなんて、俺ら一族の任務は、そんなに慈悲なものじゃない。
ボランティアでやれるほど、簡単じゃないし、安全じゃないし、仕事だからだ。
任務で死んだやつも、行方不明になったやつもいる。
俺らの命は、そんなに軽いものじゃない。
少なすぎる報酬の依頼もたまにあるけど、なめてんのか? 俺らの命はそんなに安くない。
相応の報酬がなければ、俺は解決なんてしてやらない。
出しおしむなら、自分たちでどうにかしろって話だ。
俺はすぐ横で閉まっているカーテンを引っつかみ、左右にシャッと開いた。
ヤミに閉ざされていた部屋を、柔らかな白い光が包みこむ。
切りとられた四角い枠には、吸いこまれそうなほどスッキリとした青空と、風に揺れる鮮やかな木々が映っている。
慣れない眩しさに目を細め、俺は腕を上にグッと引っ張った。
「俺のやり方が気に入らないなら、エルは無理に従う必要なんてない。嫌なら、今すぐ契約を解いて、自由にしてやるから」
まぁ当然、こんな優秀な使い魔には離れてほしくないけどな。
俺が試すように言い放つと、エルは少し目を見開いて、ゆっくりと頭を下げた。
「そんなことしないで。僕はコアに忠誠を誓ってる。嫌なんじゃなくて、ただの僕の考えだよ。コアが嫌じゃなかったら、僕を使い魔のままにしてほしい」
「いや、俺も悪かった。俺のほうこそ、エルを手放したくないのにな」
顔を上げたエルと、視線がぶつかる。
お互い困ったように苦笑いをし、ベッドから抜けた。
⋯⋯さてと。夜まで、アレをやるか!
不敵な笑みを交わし、俺はあるモノを手に取った。