第4話 獣の耳と手
そこは真っ暗な場所だった。
ほんの少し先も見えないほど暗い。こんなに暗かったら一歩先を歩くのだってまともに出来やしない。
それに暗いだけじゃなくて、酷く寒かった。あまりにも寒いものだから身体が震えてしまって仕方がなかった。このままだとあまりの寒さに凍え死んでしまうかもしれない。
そんなことを思った時、誰かの声が聞こえたような気がした。
こんな暗くて寒い場所に一人でいたくない。
私はその声の主に助けを求めるかのように左手を伸ばす。すると声をかけてくれた誰かが私の手を握ってくれた。その手はとても温かく、力強かった。
――だけど、その手は人間のものではなかった。
その手には厚い毛が生えていて、まるで獣のような鋭く尖った爪が生えていた。私が驚いて、目を凝らすと暗闇の中に狼――いや、違う。ただの狼じゃない人の姿をした狼が浮かび上がった。
――逃げなきゃ!
私は逃げようとした。けれども人の姿をした狼は私の左手を掴んで放さない。
――……お父さんっ!
――……お母さんっ!
――……ミーシャっ!
私は頼りになる人たちの名前を次々と叫ぶけれど、誰も姿を現さない。
どれだけ助けを求めても誰も私の声には応えてくれず、人の姿をした狼は大きな口を開き、ついには私の左手を食いちぎってしまった……。
…………
………
…
アリシエが目を開けると、そこはベッドの上だった。
「こ、ここは……?」
どうしてベッドの上にいるんだろう。
もしかして、さっきまでの出来事は何もかも全て夢だったんだろうか。
そうだったらいいな、とアリシエは思った。
でも、そんなことはあり得ないとも思っていた。
痛みも恐さも苦しさも……全部憶えている。あれは現実だ。絶対に夢なんかじゃない。
でも、それにしては変だ。
気を失う前、自分は大きな犬の魔物に追われ、最後には崖から落ちてしまったはずだ。それなのにどうして柔らかいベッドの上ですやすやと眠っていたんだろう。
(ひょっとして村の人が助けてくれたのかな……)
アリシエは自分のいる場所を見回した。
そこは石で出来た部屋だった。自分が寝ているベッドの他には机とテーブル。それと空の花瓶があるだけの寂しい感じの場所だったけど、綺麗に整えられていて、汚れもないし、貧しい感じもしない。
(あれ……? 村にこんな石造りの家なんてなかったよね……?)
ミュルゼにある家のほとんどは木で作られたものだ。石で作られた家なんて村を出て、他所の街まで行かなければなかったはずだ。
それならどこかの街の人が助けてくれたんだろうか。そう考えるしかなさそうだけど、それも素直には受け入れられなかった。
ミュルゼの村から他所の街まではそれなりに距離がある。街の人が偶然自分を見つけてくれたと考えるのは無理があるように思えた。
でも、どんなに無理があるとしても、自分がここにいるのは変えようのない事実だ。だとしたら誰かが助けてくれたに違いない。何かとんでもない幸運が起こったのだ。
そうアリシエは結論付けようとした。
だがそれは出来なかった。
「……あれ?」
アリシエは身体に違和感を感じた。
ベッドのシーツを掴む自分の左手から妙な感覚がする。
(なんだろ……棘でも刺さっちゃったのかな……?)
不思議に思い、アリシエは自分の左手を見た。
「えっ……? えええっ……!?」
左手を見た瞬間、アリシエは思わず声をあげた。
だってそうだ。こんなのおかしい。
アリシエの左手には獣のような毛が生え、鋭い爪が生えていた。さらに手のひらには猫や犬のように肉球まである。
こんなの人間の手じゃない。
獣――狼の手だ。
(う、嘘……!?)
やっぱりこれは夢だ。
こんな馬鹿なことあるわけない。
(なんで、なんで私の手がこんな狼の手みたいになっちゃったの……!?)
アリシエは右手で頭を抑えた。
だが、頭の上にも変な感触がある。
アリシエが恐る恐る手を動かすともふもふとした感覚が右手の方から伝わってきた。
「い、一体何が起こってるの……?」
部屋の隅にあった花瓶に自分の姿が映る。
頭には狼のような耳が生え、左手も狼のような手に変わっている。右手だけは人間の手のままだけど、そんなのなんの慰めにもならない。
「……嘘だ。こんなの嘘だ……」
アリシエは毛布の中で身体を丸めて目を閉じた。
(……こんなの全部、全部、夢だ。私は村にいるんだ。祠の掃除をしてミーシャと一緒に遊んで、ご飯を食べて、それで夜遅くまで一緒にお話しするんだ……。こんなの変な手と耳なんてあるわけないんだ……)
でも、いつまでもそうやっていても現実はちっとも変わってくれなくて……アリシエの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていった。