第3話 平和な日の終わり
それからアリシエはミーシャと別れ、村の外れにある祠にやってきた。
この祠の中には村を魔物から守る魔法の宝玉がある。祠の中とその周りを掃除することが、アリシエが村長から頼まれたことだった。
(初めて村長様からここを掃除するように始めて頼まれた時はすごく怖かったなぁ……途中からは泣きそうになっちゃたし……)
もし何か不手際があって宝玉が割れたり、どこかに行って見つからなくなってしまったら大変なことになってしまうかもしれない……。そう思うとアリシエは怖くて怖くて仕方がなくなり、最後は半泣きになりながらも掃除をこなしたのだった。
結局の所、アリシエの心配は杞憂でしかなかった。
魔物払いの宝玉はとても頑丈な作りをしており、高い所から落ちてもひび一つ入ることはない。
その上、宝玉はこの土地の霊脈と深く結びついている。その結びつきは非常に強く、祠の外に宝玉を持ち出すことさえ並の人間には不可能だ。
ましてや村の外に持ち出すなんて論外で、無理矢理にでも村の外に持ちだそうとすれば、宝玉はその莫大な魔力を持って盗人を黒こげにしてしまうという。
そう。宝玉が壊れたり、なくなることを心配する必要なんて最初からなかったのだ。それなのに自分は泣いてしまった。その時のことを思い出すと自分はなんて馬鹿だったんだろう、と思うけど、あの時の自分は何にも知らなかったのだから、仕方がない。
今はもうそんなことはない。
それでもやはり祠の前に立つと緊張し、身が引き締まる思いがするのだった。
(祠の周り、ずいぶんと汚れちゃってる……。この間の嵐、ほんとに酷かったもんね……)
ここはみんなを守ってくれる宝玉のあるとても大事な場所なのだ。
魔物払いの力に影響がないとはいえ、こんな風に酷く汚れたままにはしておけない。
「よーし。思いっきり綺麗にしちゃうからね」
誰に聞かせることなくアリシエは呟いた。
村の男の子からは泣き虫だとか怖がりだとか……散々なことを言われているが、部屋や物を綺麗にすることだけは昔から得意だった。
だから村長様は自分に村を守る宝玉を納める祠の掃除のお役目を自分に与えてくれたのだ。その信頼に全力を持って応えたい。
まずは祠の外を綺麗にすることから始めよう。それから中の掃除だ。
アリシエは「さあ、頑張るぞ」と呟き、箒を手にして、祠の近くに散らばっている落ち葉を掃き始めた。
祠の外の掃除を始めてから一時間が経った。
もう祠の近くに落ち葉は落ちていないし、雨に濡れ、泥がこびりついて汚くなってしまった部分もぴかぴかに磨き終わり、今ではすっかり綺麗になっている。
さて、そろそろ祠の中の掃除を始めよう。
そう思ったのだけど――
「あっ、そうだ……」
うっかりしていた。泉の水を汲んでくるのを忘れてしまっていた。
祠の掃除をする時は、中にある水瓶の水を全て新しいものに入れ替えることになっている。どうしてそんなことをしないといけないのかは知らないけど、とにかくそういう決まりになっているのだ。
ただ、困った事にここから泉までは結構な距離があった。徒歩だと泉まで三十分はかかるから、水を汲んで往復するには一時間以上必要だ。村から直接泉に行けば、そこまで時間はかからなかった。まず祠に行く前に泉に寄って水を汲んで来るべきだったのだけど、今となってはどうしようもない。
とはいえここで嘆いていてもどうにもならない。泉の水がなければ掃除を終えることはできないのだから、いくら時間がかかろうが行くしかないのだ。
(……早く掃除を終えて、ミーシャの家に行こう。それで美味しい夕飯を食べて、たくさん楽しいことをするんだ)
大丈夫。まだ時間はある。アリシエは自分を励まし、水桶を手に泉に向かった。
…………
………
……
…
一時間後。アリシエは泉の水がたっぷりと入った水桶を手に、祠の近くに戻ってきた。あまりに急いでいたから途中で転んで水桶を落としてしまいそうになった時は本当に肝が冷えた。
一応、水桶には蓋がしてある。だから地面に落とした程度では水が溢れたりはしないが、水桶は木で出来ていてあんまり頑丈じゃないから、もし壊れてしまったら大変なことになるところだった。
そんなことになったらミーシャに「アリシエちゃんは本当にドジっ子だねぇ」と言われ、大笑いされてしまうし、信頼して祠の掃除を任せてくれた村長にも申し訳ない。そうならなくて本当に良かった。
(祠の中の水瓶の水を新しいものに変えたら、いよいよ祠の中の掃除だね)
祠の中はあまり広くないし、嵐で汚れたわけじゃないから、外ほど掃除に時間をかけずにすむ。一生懸命頑張れば、ミーシャの家の夕食には十分間に合うはずだ。
ミーシャはアリシエが来るまで夕食に手をつけないでいてくれると約束した。負けん気の強いミーシャのことだ。どれだけ腹ペコになろうとパンの一切れも口にしないに違いない。
(急がなくっちゃ。ミーシャのお腹に穴を開けちゃうわけにはいかないもんね)
楽しい時間まで、あともうちょっとだ。アリシエは元気を振り絞り、祠に向かって、早歩きで向かった。
と、その時だった。
アリシエの目に祠の側で誰かが立って姿が映った。
「あの人、誰なんだろ……」
アリシエはその人の顔を見ようとした。
だけど、その人の顔には森の木々の影がかかっていたし、おまけに黒いローブを着て、フードを目深に被っていたから、その人が男の人か女の人かさえもわからなかった。かろうじてわかるのは背丈の大きさからその人が大人だということくらい。
ミュルゼは小さな村だ。みんなが顔見知りの村の中でなぜ顔を隠しているのだろう。いや、そもそもどうしてこんな所に一人でいるのか。
……なんだか嫌な予感がする。
アリシエは黒いローブの人物の正体を確かめようと目を凝らした。
木の影のせいで相変わらず顔は見えない。だがその代わりに驚くべきものがアリシエの目に映った。
「えっ……? あ、あれって……!?」
黒いローブの人物はその手に宝玉――本来は祠の中にあるはずのもの――を持っていた。
「な、なんであの人が宝玉を持ってるの……?」
あの宝玉は魔物からこの村を守っている大切なものだ。どんな理由があろうとも祠の外に持ち出そうとしてはいけない。そんなことは小さな子どもでも知っている。
そもそも宝玉を祠の外に持ち出すことは不可能なはずだ。祠の外に宝玉を持ち出せば、魔力の炎にその身を焼かれてしまう。それなのにローブの人物は炎に焼かれることなく宝玉を手にしている……。
アリシエは自分の身体が恐怖で震えるのを感じた
何が起きているのかわからないが、とても恐ろしいことが起こっている。それだけは理解できた。
こうしてはいられない。
一刻も早く、村の誰かにこのことを伝えなければ、そう思い、身を翻そうとしたその瞬間――足下でぱきっという乾いた音が鳴った。
(あっ……!)
アリシエは心の中で叫び声をあげた。
思いもよらぬことに動揺してしまい、不用意にも地面に落ちていた木の枝を踏んづけてしまったのだ。それは静けさに満ちたこの場所にはあまりにも大きな音だった。
(お願い……っ! どうか、気付かないで……!)
アリシエは願ったが、その願いは通じなかった。
黒いローブの人物がアリシエに顔を向けた。
目はフードの下に隠されていて見えない。だけどその人物が自分の存在に気が付いたことは疑いようもなかった。
(殺される……っ!)
まだ何もされていないのに確信めいた予感がし、気がつくとアリシエは水桶を投げ捨てて、全力で走り出していた。
(どうしよう、どうしよう……っ!)
相手は自分よりもずっと力の強い大人だ。
もしかしたら武器を持っているかもしれない。そうでなくても腕力の差は絶望的だ。追いつかれてしまったらそれて終わりだ。
(でも、ここなら……っ!)
この森はアリシエにとって庭も同然だ。
森の中に生えた草や剥き出しになった石が沢山ある。
ミュルゼで暮らしてきたアリシエなら難なく避けることは出来るが、他所から来た人ならそれらに足を捕られて上手く走ることは出来ないはずだ。そう信じて、アリシエは必死で走り続けた。
幸運なことにアリシエの考えは当たっていたらしく、黒いローブの人物の手がアリシエを捉えることはなかった。
(誰かにこのことを伝えないと……っ!)
全力で走りながら、何をするべきか考える。
あの人が盗んだ宝玉がこの村から無くなれば、村を守る魔物払いの結界の力が消え失せ、魔物たちがミュルゼを襲うことになる。それだけはなんとしても阻止しないといけない。
そのためには、アリシエ無事に逃げ切って、このことを誰かに伝える必要がある。だけど、その相手は誰でもいいわけじゃない。助けを求めた人が子供やお年寄りの人だったりしたら、その人たちに危険が及んでしまう。
――どうしたらいいの。
アリシエは必死に考えを巡らせた。
(そ、そうだ。村長様かミーシャのお父さんなら……!)
村長は年配だが、とても凄い魔法の使い手だ。
もし彼の手に負えない相手でも、時間を稼ぐことが出来れば、騒ぎを聞きつけてミーシャの父親がその場に駆けつけてくれるはずだ。
この村にはミーシャの父親がいる。アリシエは娘に優しい良い父親の姿しか知らないが、かつての彼は剣と魔法を自在に操り、その名を大陸に轟かせたほどの勇士なのだ。
ようやく希望が見えてきた。
でも、そのためにはまずアリシエ自身が走り続け、黒いローブの人物から逃げ切らなければならない。
(私の足にミュルゼのみんなの運命がかかってるんだ……!)
だから少しくらい苦しくても息を切らせるな。
絶対に足を止めるな。
怖いなんて思うな。
沢山の思いで胸を一杯にしながら、ただひたすらにアリシエは走り続けた。
そして――いつの間にか黒いローブの人物の姿は見えなくなっていた。
(えっ……? に、逃げ切れたの……?)
後ろを振り返りながら、走る速度を少しだけ緩めようとする。
と、その時だった。後ろの方で大きなうなり声が聞こえた。
黒いローブの人物の姿はもう見えない。
だが、その代わりに大きな黒い犬がこちらに向かってゆっくりと進んでくるのが見えた。
その犬はただの犬ではなかった。
村の大人よりも遙かに大きな身体。血のような赤い瞳。額に生えた大きな角の先端は鋭く尖っていてアリシエのような子供の身体なんて一突きで貫いてしまえそうだった。
(な、なにあれ……? まるで――魔物みたい……)
いや、そんなはずはない。ここは魔物払いの結界に守られた場所だ。魔物が入り込むことは絶対にあり得ない。
でも、それならあれはなんなのだろう……?
黒い犬の怪物はアリシエを見て、一目散に駆けだしてきた。
間違いない、狙われているのは自分だ。あんな化け物に襲われたらひとたまりもない。恐怖と疲れで全身がふらつく中、アリシエは必死で足を動かした。
(まだ、まだ大丈夫……っ)
この先には丸太でできた橋がある。
橋の幅は丸太だけあってかなり小さい。人間ならともかく、あんな大きな生き物があの橋を渡るのは無理だ。あの橋にさえ辿り着けばなんとかなる。
アリシエは全力で走った。
(あと少し、もうちょっとで橋に辿り着く……っ!)
そう思った次の瞬間――
「痛っ!?」
いきなり頭の中が熱くなり、目の前の景色が激しく揺れた。
なんだろう。お腹のあたりに焼けるような痛みを感じる。アリシエが手でお腹を触ると、手がぬるっとした気持ちの悪い感触に包まれた。走りながら自分の手を見ると――その手は真っ赤な血で染まっていた。
「えっ……?」
いつの間にかお腹から血が出ていた。
それもかなりの量の血だ。こんなに沢山の血が出るような傷が自然に付くはずがない。あの犬の魔物に傷をつけられたに違いない。
「くっ……」
アリシエの口から苦痛の声が漏れた。
まるで刃物で鋭い斬りつけられたみたいに血がどんどん溢れてくる。
でも、変だ。あの黒い犬はアリシエの後ろにいる。どうして引っ掻かれても噛みつかれてもいないのにこんな傷を負わされたのか。
(……もしかして魔法の力なの……?)
魔法の力なら触れることなく、傷をつけることが出来る。
恐らくさっきの衝撃は自分が魔法で攻撃されたものに違いない。だが、魔物が魔法を使うなんて……そんなことが出来るのはよっぽど強い力を持つ魔物だけだ。
(そんな魔物がどうしてこんな所に……?)
そもそもあの黒い犬は一体どこからやってきたのか。あの黒いローブの人物が連れてきたのか。
頭の中に色々な疑問が湧き起こってくる。
でも、今はあれこれ考えてる場合じゃない。
血は止まらないし、お腹がひどく痛んで辛いけど、まだ走れる。ここで足を止めてしまったら、本当に終わりだ。
アリシエは痛みを堪え、目に涙を浮かべながら走り続けた。
もうすぐ丸太の橋に辿り着く、こんなふらふらな状態で狭くて不安定な橋を渡れるかわからないけど、とにかくやるしかない。
だが、おかしなことに橋は姿を見せなかった。
そしてアリシエはついに足を止めた。
傷を負ったまま走り続けたせいで既に身体は限界に達している。広いも痛みも我慢できない所まで来ていた。
だが、アリシエが足を止めたのは疲れや痛みのせいではなかった。
そうではなく、 進むべき道がないのだ。
目の前には崖が広がっている。
(えっ……? な、なんで!?)
最悪だ。痛みと恐怖で気が動転して、道を間違えてしまったのだ。
目の前には崖が広がり、後ろからは恐ろしい犬の化け物が迫ってきている。
なんとかしないといけないのに。何もすることが出来ない。
全身の震えが止まらない。あまりに多くの血を流しすぎたせいだろうか頭の中がぼんやりしてきた。
犬の化け物はアリシエのすぐ間近まで迫ってきていた。
もうこれ以上逃げることはできない。
頭の中がどんどん真っ黒になっていく中、アリシエは崖に足を踏み出していた。
――どうして、私がそんなことをしたのかはわからない。
あの犬の化け物に食い殺されるのは、とても痛そうで、それよりはましに思えたのかもしれないし……ただ単に怖かっただけなのかもしれない。
どちらにせよ。もう私はここでお終いだ。
「……約束を守れなくてごめんね、ミーシャ」
親友に謝罪の言葉を口にして、アリシエはそっと目を閉じた。