福井の高倉健と勝軍地蔵のこと
竹内さんが運転する軽トラは、谷本さんのとは比較にならないほどなめらか。でもそれは仕方ないことかも。谷本さんはやっと若葉マークが取れたところで福井の町では運転しない、それに引き換え竹内さんはプロのドライバーなんだから。でも運転の仕方によって、こんなに乗り心地って違うんだなあ、とゆかりは思いながらほんわりと身体が揺れるのを楽しんでいた。
マンションの玄関前にトラックを停めて、ゆかりと竹内さんは荷物を取りに部屋に行った。
「これで全部ですか?」
「はい。まとめておきました」
荷物はカバンやダンボール、ごみ袋に全部詰めて、入口付近にひとかたまりにしておいたのだ。
「うーん。桃ノさんはただの美しいお嬢さんじゃあないですね。ずいぶんしっかりした人のようだ。これを見ただけでわかる」
「いえ!とんでもないです。私なんかいつもフラフラして、間違いばっかり。だから生活を変えてみたくて引っ越すだけなんです」
「あそこは眺めもいいし、きっと何でも上手くやれるようになりますよ」
竹内さんはそう言って笑うと、ゆかりに一番軽い荷物を持たせ、自分はダンボールとカバンを抱えて、階下に降りた。玄関を開けて軽トラの荷台に積む。
「桃ノさんはここで荷物の番をしてて。あとの荷物は俺がぼちぼち降ろしますからね」
竹内さんはそう言うと、さっさと階段を上がっていってしまった。
私、桃ノじゃなくて桃園なんだけどなあ、なんてことを思いながら荷台に載せた荷物を隅にまとめていると、
「おいッ」男の声がゆかりを呼んだ。
「あ」 コンビニの店長さんだった。
「桃、お前何で辞めるの?いやまあ、辞めたきゃ勝手に辞めりゃいいけどさ、何で俺に言わないんだよ」
冷たい目をして笑う、いつもの気味悪い笑顔ではなくて、狂ったような目つきで、なじるように男が言った。
「店長、おいでじゃなかったんです。その日はたまたまお母さんが出てらしたから、お母さんに話しただけです」
「学生バイトのシフト組んでるのが俺なのは知ってるよな。俺に言わなきゃいけないんだよ」
男は少しずつ近づきながら言った。
「 お母さんから、わかった、シフトを組み替えるから、明日からもう来なくていいって言われたんです。だから、」
「何で辞めるのかも言ったのか?俺に付きまとわれるのが嫌だとか言ったのか?」
危険だ、とゆかりは直感した。それから、やっぱり!とも。
(私は男運を悪くする意地悪な悪霊に、やっぱり今も取り憑かれていたんだ。愛宕坂の古くて小さなあの家に引っ越すことなんか、考えても無駄だったんだね)
そんなネガティブな考えが心の中の澱となって、ゆかりの身体を硬直させた。
(ああ、男がすぐそこまでやってきたよ。私はあいつに頭を叩かれて、車に連れ込まれるんだわ。そう、六年前のあの時のように)
その時、背中から人の足音が聞こえた。男はゆかりの背中の誰かに気づき、狂った目をそちらに向けた。
すると男の目からたちまち凶暴さ、そして残忍さが消滅していった。
振り向くまでもなく、ゆかりは思い出していた。この前、ハニワンダー・サクラが窮地を救ってくれたように、今は高倉健、竹内さんが助けてくれるのだ。
竹内さんはじっと店長をにらんでいるのだろう、声が聞こえてこないけれど店長の怯えた目を見ればわかる、男の立場はあっという間に逆転したのだ。
竹内さんはゆかりの隣にやってきて、荷台に荷物を置いた。ゆかりはちらりと竹内さんの顔を見た。彼は男から一度も目を離していないように見えた。
「二度とだぞ。二度とこの子の前に顔を出すんじゃない。それとも俺を怒らせてみるか。その日を一生、忘れられない日にしてやるからな」
店長はちらりとゆかりの顔を見て、それから何かをあきらめたように、肩を落とした。それからうん、うんとうなずいて離れていった。やがてクルマのエンジン音が鳴り渡り、その音が聞こえなくなるまで、竹内さんはじっとその場に立っていた。
「行きましたね」
竹内さんがそうつぶやくと、ゆかりもようやく彼に顔を向けた。
竹内さんは何でもなかったような顔をして、
「ここで待っててや、まだまだ降ろしてくるからねぇ」と言って、さっさとマンションに戻っていった。
竹内さんが荷物を荷台まで運び、荷台の上に乗り込んだゆかりはそれを積み直す。ほんの十分ちょっとで荷物は全て積み込まれた。
「桃ノさん、部屋、確認してきてよ。鍵もかけてな」
「はい」
軽トラは降りてきたゆかりを乗せると、愛宕坂に向かって走り始めた。
ふわりと身体が優しく揺れた時、ゆかりの目から涙が溢れてぽたぽた落ちた。涙は止まらなくて、掌で顔を覆った。竹内さんは黙ってタオル地のハンカチを彼女の膝に置いた。
「おじさん、ホントに高倉健でした」
「こんなツルツルのおんちゃんに何も言わんとって!恥ずかしいもの。おっと、そのハンカチはあげるから鼻をかんでもいいよ」
「すいません。知ってたんですか、あの人のこと」
「里美さんから聞いてましたよ。大丈夫ですわ。あいつはもう顔を出しません。あの手の男はよくいるんです」
「どうしよう。何てお礼を言えばいいのか、わからないです」
「礼なんかいらんけどさ、好きにならんとってよ。俺には奥さんも娘もいるんだからね」
「え」とゆかりはちらりと竹内さんの横顔を伺った。
「あははっ。桃ノさん、可愛いから馬鹿言っちゃった、ごめん。男は幾つになっても馬鹿ですね。そりゃそうとさっきのこと、里美さんには言わんとってください。あの人も若い時にいろいろあったみたいで、知らない男を怖がるところがあるんです。そのかわりお化けとか妖怪とかは全然平気。虫とか蜘蛛も平気。俺はどれも駄目ですけどね」
「わッ、虫、出るんですか?私も苦手なんですけど」
「そりゃ出ますよ、山だから。そのかわりお化けは出ません。聞いたことないから」
「嫌ですね。世の中、怖いものだらけです」
「桃ノさんも俺も、まだ若いからです。歳を取ればどんどん怖いものがなくなっていくんですと。親父が言ってました。そりゃそうですよね、明日死ぬのがわかってたら、怖いものなんかあるわけないもの」
愛宕坂の家では丸岡親子と谷本さんが店の掃除をしていた。
肩に段ボールをふたつ乗っけた竹内さんがやってきて、
「ただいま〜、まとめて二階に上げるから、置いといてくれたらいいよ」と、階段の前にどんと降ろした。
沙織さんは、「いやいや、あたしらだって!」と、晴美さんと谷本さんのお尻をぽんぼんと叩いて、下に降りていった。
「竹内さん、ご苦労さんねえ」
風呂の掃除をしていたのか、あちこちを水に濡らした多田さんが奥からやってきた時はすでに、竹内さんは石段を駆け降りていて、かわりにゆかりが荷物を抱えて家に入ってきたところだ。
「あ、桃園さん。どうやった?竹内さん、いい人でしょ?重たい荷物、全部あの人持ってくれたでしょ」
「はい。とってもいい人。ちょっとお調子者のところがあるけど、可愛らしい人ですね」
「これからもいろいろ頼んだらいいと思うわ。あなたほどの年齢の子に、変なことは考えない人だから」
ともあれ竹内さんのおかげで作業は捗り、午後の二時にはあらかた荷物は片付いた。
「それじゃ俺はそろそろ」と言う竹内さんを沙織さんが呼び止めた。
「ちょっと、お昼食べてってください。私のお手製で悪いけど、これ食べて帰って。あたしたちも食べたら帰るから」
六人は一階の居間で座卓に広げられた昼食を食べた。それが済むと「それじゃ、本当にそろそろ」と竹内さん。
「桃ノさん、軽トラはどうするんですか」
竹内さんの問いに、谷本さんが手を上げた。
「あ、私が運転して帰ります。ゆかり、もう返却していいわね。あたしもそのまま帰るから」
「本当?何から何までありがとう。今度泊まりに来てね。ご馳走するから」
「 必ずよ」と谷本さん。
「待って。あたしらも帰るから。あとはプライベートな荷物を整理せんとあかんやろし」
沙織さんがそう言うと、晴美さんは座卓の上の使い捨て食器をごみ袋にまとめ始めた。
「晴美、あとは私がやるから」
「坂を降りたところにゴミステーションがあったから。ついでよ」
「ありがとう。今日のことはホントに晴美のおかげ。感謝してるからね」
「わかってるって」
丸岡親子はふたつのごみ袋を抱え、外で待っていた谷本さん、竹内さんと肩を並べて帰っていった。
「さて布団とかを入れる前に、押し入れの中、掃除機かけるわね」と多田さんが立ち上がった。
「私、やりますから」
「ううん。入居前の掃除は大家さんがしないと」
「すいません。それじゃ二階に上げた私の掃除機使ってください。見てきますね」
掃除機は部屋の隅に立て掛けてあった。それじゃ、と次にトートバッグの口を開いて、二メートルほどの延長コードを引っ張り出した。
多田さんが来たので、「よければこれも使ってください」とコードを手渡した。
「何してもテキパキやるのね。やっぱり福井大学生は違うなあ。それとも都会の人だからやろか。ね、ゆかりさんって呼んでもいい?それとも桃ちゃんかしら」
「ゆかり、でお願いします。じゃあ私も里美さんってお呼びしていいですか?」
「もちろんよ。里美ちゃん、だともっと嬉しいかも」
ゆかりは笑顔を見せてから、部屋の押し入れを開け、次におもての部屋の押し入れを開けた。
中は空、のはずだったけど・・・。
木彫りの小さな人形がひとつ、ポツンと置いてあった。
「うん?これは何でしょう」
「何なに?」と里美さんがやってきて、人形を手にとった。
人の中指ほどの大きさで、鎧兜に身を包んだ丸顔の子どもが小さめの馬に乗っている、そんな木彫りの像だ。
「へえ、懐かしいな。勝軍地蔵だね」
「ショーグンジゾー?何ですか、それ」
「うーん、話すと長くなるからなあ」
「えー、気になるじゃないですか。教えてくださいよ、さ・と・み・ちゃん!」
「ううッ、ゆかりさん、なかなかやるわね。ここでちゃん付けするのか。わかった、話すわ」
里美さんはそう言うと、木像をゆかりに手渡した。
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もともと福井の中心は一乗谷っていって、ここから遠く離れた山間の谷にあったの。そのころの福井市は田んぼが広がってるど田舎で、見張りのための小さな城がちょこちょこあるだけだった。そのへんも含めて越前国は室町時代の守護大名、斯波氏の領地だったんだけど、下剋上で家臣だった朝倉氏一族が越前国を奪ったのね。
その朝倉氏が奉っていたのが、闘いの神様である愛宕権現という神様なのね。さて、戦国時代の終わりの始まりみたいな頃のこと、織田信長が朝倉氏一族を滅して、一乗谷に柴田勝家が入った。勝家はやがて来る豊臣秀吉との戦いに備えて、一乗谷を出て居城を福井市内に移したの。北ノ庄城といって福井駅前あたりよ。
さて、引っ越しのひとつとして、愛宕権現を北ノ庄城近くのここ、足羽山に移したの。ここを通って行ったから、ここを愛宕坂と言うのよ。それで足羽山も愛宕山と言われたわ。大正時代までそう呼ばれていたらしいわ。
ところで勝軍地蔵のことね。愛宕権現は神様なんだけど、その頃は仏教の如来さんとか菩薩さんとかいうのも八百万の神の一味、というか別の顔ですわ、みたいな説が定説としてあったの。愛宕権現の仏様の名前が勝軍地蔵っていうお地蔵さまなのよ。
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「でもこれは愛宕権現じゃなくて勝軍地蔵だと言うのは、そこに違いがあるんですか?」
「あるのよ。神さまは姿を見せないの。細かい一人ひとりを助ける仕事じゃなくて、もっと大きなもののためにおられるのが八百万の神さま。迷い深い人間どもをお救いくださるのは仏の神さまです。お地蔵さんとか釈迦如来とか」
「ふうん。そういえばお寺には誰かが彫った木像とかあるけど、神社にはありませんね。御神木とか、大岩とか、自然が創ったものを神さまにしてるような気がします」
「えへへ、実は受け売りでした。あたし、ホントは詳しくないのよ。でも、あとこれを教えてあげる。右手に持っているのは錫杖といって、武器になる杖ね。それと左手に持ってのは玉ねぎじゃないわよ、宝珠といってね、炎から身を守り、毒を解き、汚れた水を清くする、それに願ったことを何でも叶えてくれる珠なの」
「凄いですね。お地蔵さんなのに強いんだ」
「強いのよ。でも江戸時代になると、闘いの神さまは邪魔者扱いされたの。徳川幕府に闘いを挑むつもりか!とか思われたら大変なのよ。例え徳川一族の松平家であっても。だから福井城の中に東照宮を置いた。徳川家康を祀ったのね。それで愛宕権現は足羽神社に名を変えてひっそりと、死んだふりして今に至ってるの」
「ふうん。そんな勝軍地蔵がなぜこの家にあるんですかね」
「このあたりに住んでる人は、大昔から愛宕権現を祀っているのよ。正確に言うと足羽神社と愛宕権現は違う。でも社はなくてもご神木はどこかにあるんでしょうね。この木像のことは知らないけれど、お母さんがずっと持ってたのかな」
「大事なものですね。はい、お返しします」
ゆかりは木像を差し出した。でも里美さんは手を出さない。
「いらない。あたし、人形って嫌いなの。おまじないとか占いとか、そんなのも全然信じてないの。だからあたしが持ってたって値打ちがないのよ。そうね、百円のガチャガチャくらいのものかな。捨てるために買う、みたいな」
その瞬間、木像がぴくりと震えたような感覚がゆかりの手の中に広がった。
うん?と手を開いて木像を確かめる。でも何の異常も見えなかった。
「どうしたの?」
「いえ、何でもないです。いらないなら私がもらってもいいですか?長くここにいたのなら、このまま部屋のどこかに飾っておこうかなって」
「そうね。お母さんも喜ぶかも。とにかくあげたからね。さあ、残りを片付けちゃいましょう」