愛宕坂の黒川商店のこと
11時、約束のコインパークに車を入れると、多田さんは先着して車の中で待っていた。
ドアを開けて出てきた多田里美さんはとても六十歳とは思えないくらい、若々しいおばさんだ。人懐っこい顔がゆかりを安心させる。
「 あなたが晴美ちゃんのお友だちね。どこから来てるの?」
「桃園です。よろしくお願いします。ええっと、堺市、大阪の堺市です」
「あらそうなの、私は坂井町よ。今、合併の途中だけどね、坂井市になるみたい。漢字は違うけど同じね」
交差点を渡ると、一軒先に愛宕坂があった。緩やかな石段を上がるたびに広がる、風情のある景色にゆかりは思わずため息をもらした。
「 素敵な道ですね。この通り沿いにお店があるんですか?」
「ええ、もうすぐよ。もうすぐ。五岳楼っていう料亭があったんですけどね、四年前かな、橘曙覧文学館ってのになった。その手前の家なの。ああ、見えてきたわ」
と多田さんが指を指したのが、黒川商店と横組みで屋号の書かれた小さくて古い家だ。二軒ほどの間口に四枚のガラス戸が引かれ、中はカーテンで隠されていた。
多田さんは鍵を回してからギイッとガラス戸を引き、カーテンを払って中に入っていった。
いいわね、とゆかりはその佇まいに優雅な風情を感じていた。初めて見る家なのにとても懐かしい気がするのは、小津安二郎の映画のせいかも知れない。
「 入らないの?」とカーテンの隙間から沙織さんが顔を出してきたので、ゆかりはあわてて中へ。
店内には駄菓子が少し淋しげに並べられていた。
「古くてビックリした?」と沙織さん。
ゆかりは沙織さんに顔を向けると、思いきり首を振った。
「ちょっとびっくりしてたんです。町の真ん中にこんないいところがあるなんて。石段も美しいし、このお家もちっちゃくて古いけど、とっても素敵。お部屋も見せてもらっていいですか?」
「どうぞ、上がって」と多田さんが部屋から手招きしている。
店の奥に上り框があり、そこで靴を脱いで畳の間に上がり込んだ。そこは六畳ほどで右手に階段、左手に厨房が見える。
「お婆さんはここでご飯を食べたり、テレビを見てたりして、店を見てたんですね」とゆかりは言った。
「そうよ。この奥が寝間で、お風呂とトイレは階段の下にあるの。どうぞ見て」
お風呂はガス、トイレは水洗式でゆかりはひと安心だ。どれも古いけれど丁寧に使い込まれていた。
三人はそれから二階に案内された。六畳が二間、窓から入る日差しが明るい。
窓を開けると、細い石段が左右に広がり、遠くに福井の町が見渡せた。
「晴美。見てよ、素敵な景色」
ゆかりは晴美さんを手招きして、並んで景色を眺めた。
「素敵。なんて素敵なの。私が引っ越したいくらいよ」と晴美さん。
「二部屋、どっちも使ってもらって構わないわ。タンスとかはこのままでいいかしら?中味は空にするけど」
「おばさん、夜はちょっと怖くない?」
晴美さんが聞いた。
「お向かいには文学館があるし、無人の家も多いから寂しいかも。でも人の住んでる家は何件もあるのよ。ここだって住んでたんだから」
「そうよ、石段をタタタン、と降りたら町の真ん中じゃないの。ちょっと行けばコンビニだってあるし」と沙織さんが言い添えた。
「一階はどんな風に使わせてもらったらいいんですか?」
「寝間だけは開けといて。私が泊まるときに使うから。お母さんが帰るかも知れないしね。あとは自由に使ってくれていいわよ」
「多田さん。私、ここに住みたいです。でも家賃のこと、聞いてもいいですか?」
「家賃?家賃ねえ。桃園さんは土曜日か日曜日、店番は頼めないかしら?それしてくれるのなら、家賃は要らないわ。水道代も要らない。ガス代も電気代も、全部要らない」
「本当に?でもそれじゃあまりにも厚かまし過ぎるような気が」
「一日アルバイトしてもらって一万円とするでしょ。月に四日だと四万円、こちらから払わなきゃいけないのよ。違うな。家のおもりまでしてもらうんだから、もっと払わなきゃいけないのか」
「おもりとか、そんなのは気にしないでください。私、使わせてもらう身ですから。じゃあね、平日、夕方しばらくだけでも店を開けさせてもらってもいいですか?近所の子どもたちが買いにくるかも。少しでも売り上げに貢献しなくちゃ」
「よし、それで決まり!」と沙織さんが声を上げた。
「桃園さん。土曜日と日曜日、どっちにする?」
「私はどっちでも」
「里美さんはどっちが都合いいの?」
「あたしは出来たら日曜日がいいんだけど」
「よし、じゃあね。桃園さんはこの家を無償で使わせてもらう。そのかわり土曜日はお店を開けて無償で店番する。時間があれば平日も店番していいけど、これは桃園さんの都合でどっちでも良しとする。電気代、ガス代、水道代は里美さん負担と。これでどう?お二人さん」
ゆかりは多田さんと顔を見合わせた。多田さんは笑顔になって握手を求めてきた。ゆかりは頭を下げて、差し出された手を握った。
「良かったわ、桃園さんに気に入ってもらえて。沙織さんも昨日の今日で、すぐにこんな感じのいい子、紹介してくれてありがとう」
四人は愛宕坂近くの蕎麦屋で、辛めのおろし蕎麦をすすっているところだ。
「こちらこそ嬉しいです。アルバイトまで見つかったし」
「今はバイトは?」
との多田さんの問いに、沙織さんが実はね、とコンビニ店長の話をしてくれた。
「そっか。美人て大変ねえ」と多田さんが言うと、
「良かったわねえ、私たち」と沙織さんが言い足した。
「安心して。山に登ろうなんて人は子供連れかアベックか、たまに県外からの観光客か、変な男は来ないと思うから。あ、それと仕入れ先の配達の人は竹内さんておんちゃんでとてもいい人」
「おんちゃん?」
「関西だとおっちゃんね。五十過ぎたばかりなのにツルツル頭のでっかい人。下からダンボール箱をふたつ肩に乗っけて上がってくるわ。困った時は何でも相談するといいわよ。昔、花見の帰りに酔っ払いのグループが母さんに絡んでね。たまたま竹内さんが配達に来たの。あの人、ドスの利いた声で、あんたら、俺を怒らせる前に帰ったほうがいいですよ!なんて言ってさ。そしたら一目散に逃げてったって」
「昔、違う世界にいた人とか?」と沙織さん。
「さあ。でも絶対におんな子どもに手を出す人じゃない。高倉健みたいな人よ」
「ああ、じっと耐え忍んで好きな人を遠くから見守るってタイプの人ね。高倉健から見守られるって、どんな気持ちかしら。ねえ、里美さん」
多田さんとはその店で別れ、ゆかりは沙織さんの車で丸岡家に戻った。
「晴美、ありがとう。ここしばらく嫌なこと続きだったのよ。引っ越すことで運が変わるような気がするわ」
「引っ越しが済んだら泊まりに行ってもいい?最初のうちは寂しいかもよ。私が付き合ってあげてもいいわよ、香華堂さんからも近いし」
「足羽山って登ったことあるの?」
「そりゃ何べんもあるわよ。登るってほど高い山じゃない。上には公園があって、郷土博物館てのがあって、もっと先には小さな動物園もあるの」
「へえ。じゃあ今度、案内してよ」
「わかった」
ゆかりはそれから沙織さんに挨拶をして、自転車で家に帰った。部屋に戻って荷物を置くと、靴を脱がずにそのままコンビニまで歩いた。ちょうど店長さんのお母さんが店に立っていたので、今月でアルバイトを辞めると伝えた。
それから十日後、日曜朝の太陽が顔を出すと、ゆかりの引っ越しという佳き日を讃えるかのように秋空が晴れ渡った。
ゆかりはレンタカーの軽トラに荷物を積んで、マンションを出た。ゆかりは運転免許を持っていないので、運転は谷本さんに頼んでいる。
愛宕坂のふもとに軽トラを停めると、ぞろぞろと応援が来てくれた。丸岡さん親子、多田さん、その隣の男の人がきっと高倉健。
「皆さん、今日はどうも私のためにわざわざありがとうございます」
「ほら、この間話してた竹内さん。お店、また始めるって連絡したら、休みなのに来てくれたの」と多田さんが紹介する。
「竹内です。お店を手伝うとか。どうぞよろしくお願いします」
竹内さんはそう言うとニコッと笑った。
確かにこの人ににらまれたら、みんな逃げ出すだろうな、とゆかりは思った。それでもいい人のような気がする。何ともいえない人柄の良さが身体からにじみ出ている、そんな人だ。
「桃園です。今日はありがとうございます。でもあれですか。多田さんから来い!って?」
「はい。来い!とは言わないんですが、日曜日に引っ越しが、引っ越しが、ってプレッシャーが強くて・・・」
「あ?何のことなの。竹内さん、私が何を言ったって?」
「いえ、何でもないです。桃ノさん、荷物はこれで全部ですか?」と竹内さん、多田さんの問いをはぐらかすように、ゆかりに聞いた。
「ううん。もう一回戻らなきゃいけないです。でもあと一回で全部入るかな」
荷台に乗っているので運ぶのに大変そうなのは洗濯機とマットレス、それにベッド、あとは小さめの机。でも重いのは本の詰まったダンボールで、そのへんはまだマンションに残している。
「では早速」と、竹内さんは軽々と洗濯機を担いだ。
「じゃあお母さん、マットレス行こうか」
晴美さんはそう言うと、グイッと軽トラの荷台の横板を外した。
石段は五十から六十段上がるだろうか、緩やかな坂だから、足元が見えれば危険はない。ゆかりたちが二周する間に竹内さんは三周して、それで全部一階の部屋に入れてしまった。
「あのう、どうですか?軽トラ、俺が運転するから、荷物取りに戻りませんか」と竹内さんが話しかけてきた。
「知らないおんちゃんと行くのは嫌?若い女の子からはたまに怖いとか言われるから、気にしないで嫌なら嫌って、」
「多田さんからは福井の高倉健って聞いてますけど」とゆかりは答えた。
「高倉健も竹内さんも怖くないです。お願いします」