5.最凶と最恐
――誰の、おかげなのか。
そんなもの、自分たち――人の英知の結晶があるからこそ、この国は繁栄してきたのだ。
治水能力だって、作物を育て・品種改良し・いかに少ない労力で大量の収穫ができるのか、様々な分野にありとあらゆる専門家を投入し、この国が未来永劫、平和なままであるはずなのだから、と皆がそう思っている。
ルルティリアは、そんなことどうでも良い。
ついうっかり彼女が己の髪の毛に対して枝毛を見つけてしまうくらいの、その程度のささやかなことにすぎないのだ。
「誰の、おかげか、だと……?」
「ええ」
にこやかな微笑みは絶やさず、アルハザードに問うルルティリア。
しかし、物の本質を理解しようとしていないアルハザードは、自信満々にこう告げた。
「俺たちの力に決まっているだろう!」
「まあ……本気で仰っているの?」
きょとん、とルルティリアは目を丸くした。
ここまでルルティリアの表情が動いたのを見たのは、初めてかもしれない。そうアルハザードは思った。こんなにも表情がくるくると変わると知っていれば、もっと愛想よくしていれば俺が可愛がってせめて側妃にしてやっていたのに、と考えたところでアルハザードははっとした。
目の前のルルティリアの表情には、もう嫌悪感しか残っていない。
このルルティリアが、心の声を聴ける、という些細なことすらも忘れてしまっていたようだ。
「……どこまでも浅はかな思考回路をお持ちですこと」
溜息を吐いたルルティリアが、ゆっくりと腕を持ち上げ、上から下へ、す、と下ろす。
――刹那。
「何だ!」
どぉん、と大地が揺れた。
「あらあら、さっそく始まってしまったわ」
ルルティリアの笑みは更に愉しそうに、驚くほど綺麗なままに歪んでいく。
「なに、が」
「今まで味わったことがないでしょう? 地震、水害、ハリケーン、山崩れ……ああ、他には何があるのかしら!」
「は……?」
「ずぅっと守っていた精霊たちに、合図しただけですの。『お好きに』って」
ただそれだけで、精霊たちはあっという間にこの国から去った。
精霊たちが去る、つまりは土地への加護がなくなる。そうなるとどういうことが起こるのか?
守るべきものが、要がなくなる。
軸となる『芯』ともいえるべき柱がなくなるのだから、あとは推して知るべし。
うっとりと、恐ろしい内容をとっても愉しそうに話すルルティリアは正気ではないように見えるが、コレが彼女の本質。
守るべき対象は他にいるのだから、それ以外がどうなったところで、彼女らにとってはちょっとした余興くらいでしかないのだから、愉しいのは当たり前のことなのだ。
しかも、これから色々な災害が降り注いでくるであろうこの国は、これまで何百年もの間、平和でしかなかった。
あったのは所謂『人災』くらい。
ヒト同士の諍いなど、ささやかなことでしかないのだが、天災を経験していない彼らにとってはきっと未曾有の大災害になってしまうことは確定事項としてそこに在る。
「今の、は」
何なのだ、そう問いかけたかったアルハザードだが、彼の言葉を遮るように、空間そのものが、まるでガラスが割れるかのごとく、がしゃん、と音を立てて割れた。
割れ目から見えるのは虚空。
その中から、ぬるりと、白く可憐な手が出てきた。
「ひいいいい!!」
「何だあれは!!」
「うわあああああああ、化物だ!! 化け物が現れたぞ!!」
「――あら!」
恐怖がじわじわ支配されつつあったこの場で、唯一人ルルティリアだけが嬉しそうな声で手をぱん、と合わせた。
嬉しそうな表情のままで割れ目から虚空が見えているところまで足取り軽く向かい、すい、と手を伸ばして出てきていたその白い手を優しく握った。
ぱきぱき、と空間が割れて、ふぅわりと一人、出てきた。
「ずいぶんとお早い到着ですわね、リリムノワール」
「ルルティリアが、心配だった、から」
ふわ、と重力を感じさせない軽やかな動作で虚空から出てきた女性。
ルルティリアとは真逆の漆黒の艶やかな、腰まである長い髪。ふわふわとしたくせっ毛はハーフアップにされており、結び目には薔薇をかたどった紫の宝石のような鉱物で作られた髪飾りがつけられている。
纏うドレスも漆黒。
腰から大きく広がったプリンセスラインで、腕が露出しないよう、しかし包み込みすぎないようシースルーの長袖になっている。首も出すことが嫌いなのか、幅広のリボンのようなもので作られたチョーカーを着用しており、耳には大粒のオニキスをあしらったティアドロップ形のイヤリングが。
切れ長の目元には、赤でひかれたアイラインにより目力が強調されているため、見た目としては冷ややかな雰囲気となっている。
だが、ルルティリアに向ける目は、とても優しい。
「まぁ、わたくしを? 貴女がわざわざ心配して?」
「ヒトに、情けを、かけていないか」
「ふふふ……」
面白くて仕方ない、という風に、ルルティリアは笑う。嗤う。哂う。
「あっはははははははは!!」
「ルルティリア?」
「わたくしがそんなものを持ち合わせていると、リリムノワールは本気でお思いになっているの!?」
「帰ってくるの、遅かった」
ぷく、と不満そうに頬を膨らませたリリムノワールは、とても可愛らしかった。二人の会話の様子だって、内容が聞こえなければとても微笑ましいように映るだろう。
「こちらの国を守らなくても良いように、色々と壊していたら、手間取ってしまった。それだけですわ」
「…………」
本当?と声が聞こえてくるようにリリムノワールは首を傾げ、ルルティリアはにっこりと微笑んで頷いた。
「ふぅん……」
ちらり、とリリムノワールは人間側を見る。
もしかして救いの手なのでは、と思ったアルハザードや国王夫妻、貴族たちだったが、笑顔でリリムノワールが告げた内容に愕然とするしかなかった。
「なら、もうここはいらないよね?」
「リリムノワール、どうなさりたい?」
「わたしたちの、愛しいお方からの伝言」
「…………まぁ!」
愛しいお方、という単語にルルティリアは更に嬉しそうに破顔する。
それだけ見れば一人の女の子なのに、本質はそんなにも可愛らしいものではない。油断してはならない、と人間側は必死に呑み込まれないようにと耐え続けた。
「『要らないのなら、捨てなさい』、だって」
「あら、本格的にそうしてもよろしいのね」
「ルルティリアを、蔑ろにした、ヒトごと」
ぐるり、と、リリムノワールが急に人間の方向を向いた。
ルルティリアに向ける瞳とは真逆の、とても冷たい目。まるで獲物を狙う狩人のようなそれから、目を逸らしたら死ぬのではないかというくらいに、恐ろしい目。
「なくしてしまえ、と」
ルルティリアを殺そうとした王太子。
甘い言葉で取り入ろうとした国王夫妻。
ルルティリアを王太子の結婚を喜ぶふりをしながらも、陰では祝福なんか一切しておらずにルルティリアを殺せると確信していた貴族たち。
当たり前の平和すぎる世界が、ずっと続くと思い込んでいる、何も知ろうとしなかった平民たち。彼らは関係ない、と言いたかったのだが、心象操作は徹底的に行われていた。このせいで、ルルティリアのことを『王太子殿下の心を弄んだ悪魔』という噂が充満していることを、今ここに初めてやって来たリリムノワールが全て知っていた。
「なくす、って」
にた、とリリムノワールの顔が醜悪に歪んだ。
「ルルティリアを、軽んじて、殺そうとした、お前たちを、どうして許すことができて?」
ぎぎぎ、と音が付きそうなほどにゆっくりと回してからここにいる全員を満遍なく見るリリムノワールの目に宿るのは、殺意。
「そうだ、言い忘れました」
空気感を壊しそうなほど、おっとりした口調でルルティリアが追い打ちをかけてきた。
「わたくし、故郷では何故だか『最凶』だとか呼ばれておりましたけれど、このリリムノワールって『最恐』なのですって」
ふふ、と愉しそうに笑うルルティリア。
「リリムノワールはね、わたくしと、わたくしの愛しきお方のことが何よりも大好きなんですの。では、わたくしを害しようとした人のことって……どう思うと思います?」
誰かが、『あ』と呟いた、ような気がした。
これはまるで、神話の始まりだ。
誰かが、そう思った。
神への心を忘れたがために、神に見放されたことで、国ごと全てが『なかった』ということにされてしまう。
建国の時代から平和に、そして穏やかに暮らし続けてこれらというのにも関わらず、穏やかな歴史そのものが今この瞬間に終わろうとしている。
終わりを告げたのは神からではなく、ヒトが神に対して不要だ、そう言ってしまったからが故に。
彼らは真なる『神』ではない。
理解はしているのだが、しかし神にも等しきその絶対的な力をもって、盟約に基づいて守ってくれていたのだ。
守らなくても良いはずなのに。
その盟約がどれほどまでに素晴らしいものかを、これからヒトは知ることとなる。
「【全てに告げる。全て、彼の国へ】」
リリムノワールの声は静かに、空気へと溶けた。
「さっき、土の精霊にはそう告げましたけれど、あらあら」
少しずつ、少しずつ、恐怖を植え付けようとしていただけだったが、リリムノワールの手は緩まない。きっとそこが、ルルティリアとの違い。
ルルティリアは、真綿で首を絞めるように、ゆっくりと時間をかけて精霊たちを引きあげさせるつもりだった。しかし、時には素早くも引きあげさせようと思っていたのだが、リリムノワールは異なっている。
リリムノワールは、容赦なく今すぐに、何もかもを引きあげさせた上で、次の護るべき対象へと移動するべく指示をした。
――すなわち、この国から加護が一切なくなった瞬間。
「ルルティリア、まず故郷に帰ろう」
「そうね、リリムノワール。それでは皆様、もう二度とお会いすることなどございませんが、叶うならばお元気で、健やかでありますよう」
リリムノワール、ルルティリアが並んで綺麗なカーテシーを披露したその瞬間。
彼女たちの姿がぶわりと闇に包まれてその場から消えた。待ってくれ、そう国王夫妻が手を伸ばしたけれど、手が届くことはなく、掴んだのは空気のみ。
「あの国、どうなったのかしら」
「ルル、気になる?」
「ええ、リリ。だって……」
大きなベッドの上、二人の姫は寝転がって、くすくすと嗤う。
「加護が一斉になくなっただなんて、我が国でも前代未聞ですもの。結末だけ、知っておきたいな、って思ったのだけれど」
「なぁんにも、なくなった。それだけ」
「まぁ」
それならば、もういい。
ルルティリアは、これで本来の愛しい存在の花嫁となる本格的な準備に取り掛からねばならない。
ようやく、その準備ができる。
「また、盟約を作らなきゃ」
「次は貴女ね、リリムノワール」
「あの国みたいに、馬鹿なことにならなきゃ、いいんだけど」
それはどうかしら、とルルティリアは嗤う。
次は自分がリリムノワールを陰ながら見守る番。だが、それと同時進行で花嫁となる準備をしなければいけない。
僅かな間とはいえ、ヒトの花嫁候補であったことを妬み、恨んでいるこの国の貴族令嬢を黙らせなければいけない。
「わたくしも、リリムノワールも、次からが本番ね」
「ええ、ルルティリア」
二人の姫が、そうっと手を繋ぎ、指を絡め合った。
「ルルティリア、最凶の名のもとにお馬鹿さんたちの粛清をお願いね」
だって、とリリムノワールは昏い目で続けた。
「わたしの大切なルルティリアを、いないからと馬鹿にした罪は、とぉっても重いわ」
「そうね、わたくしの大切なリリムノワール」
優しく微笑んで、きゅう、と繋いだ手に力を込めた。
「だって、わたくしとあの方は、幸せになる運命なんですもの」