2.護るべきものを変えたから
「さぁ、国王陛下。我らが古に結んだ約束の証を、誓約書をお返しください。それで全てが終わりにできます」
重力により押しつぶされそうになるアルハザードは、その魔力に必死に抗おうともがこうとしていた。だが、指ひとつ動かせない状態で、何もできずにただ、ギリギリと歯を食いしばり悔しそうな顔でルルティリアを睨み付けるだけ。
上からのしかかられるようなとんでもない圧が、アルハザードを襲う。
どうにかして振り払おうにも、全身満遍なく圧があるものだから、どうしようもできない。まさに無力だった。
「ひ、姫よ!どうか考え直してくれ!(早く機嫌を直せば良いものを…この化け物が!)」
「ええ、そこのアルハザードが間違っていたの!幼い頃からの教育係の、ねじ曲がった思想教育のせいよ!だから、…だから、どうか…(さっさと微笑んで結婚式の続きをなさい!それくらいしか能が無いでしょうに!)」
「まぁ、醜いお考え」
「え」「は」
国王と王妃は揃ってぽかんとする。
ルルティリアは、不気味なほど穏やかな笑みを浮かべ、夫妻をひたりと見据えていた。
「あなた方の本音、しかと聞き届けました。お忘れですか?わたくし、心の声が丸聞こえなんですのよ」
「…………!!」
口を塞いでも、遅い。というか、心の声が丸聞こえなのだから、いくら口を物理的に塞いだとしても心の叫びは止められないし止まらない。
止める方法はただ一つ。無心になること。
でも、物事を考えながらの人間が果たして、今、この場で無心になれるというのか。
「そうですわよね。この国のヒトの思考は、少し前からねじ曲がってしまいましたものね。ええ、ええ、仕方ないことですわ」
うんうん、と一人納得するように頷いているルルティリアの雰囲気は、まだ穏やかなままである。
「けれど、今代は…特に酷いですわね。王太子も、王子、姫様達も、…あなた方も。内心で己の欲しか考えておりません」
少しずつ、ルルティリアの周りの空気が冷えていく。
「だから、わたくし達も考えました。ここまで捻れてしまったのであれば…もう、良いのではないかと」
ルルティリアの考えていることが読めない国王夫妻と、その臣下達は、どうしたものかと思考を巡らせる。それすらもルルティリアに筒抜けであるということを忘れて。
「わたくし達皆で、必死に考えましたわ。どうすれば共存しなくて済むのか、を」
凍りついた微笑みが、迫力を増す。
人ならざる彼らは、人の思いがなければ力が弱まる…はずだった。
だが、よくよく考えてみればここ数百年。人からの思いや祈りは上辺のものとなっている。にも関わらず、力は弱まっていない。てっきり必死で力を振り絞っているのだとばかり思っていたが、そうではないらしい。
「そして、数代前のわたくし達の王は考え…至りましたの」
一歩、ルルティリアが国王夫妻との距離を詰めた。
「守る対象を替えれば良いと」
「対象を…?」
「はい」
もう一歩、距離が詰まる。
「我らは、この国以外を守ることにいたしました」
「……は?」
何を言っているのだろう、と正直なところ、思ってしまったが、弱まっていない力を考えれば守る対象を替えた、というのが一番納得のいく答えである。とはいっても、そんなこと簡単に出来るものなのだろうか。どうしても疑ってしまう。人を守る力は弱まっていないというのに。
それを読んだようにルルティリアは微笑んでみせた。
「少しずつ、少しずつ、時間をかけて。互いの均衡が崩れないよう、あなた方に知られないよう力の調整を繰り返した結果、今日に至っております。それに……」
ちらり、と床に這い蹲るように力に押さえつけられているアルハザードに視線をやる。
「そこな王太子殿下が仰っていましたように、我らの加護など要らないのでしょう?ならば、もう終わりにしてしまえばよろしいのです」
提案のようで、提案ではない。
人の言うことをそのまま受け入れ、あくまで従順に従っているような雰囲気はあるのに、どこかズレている。
それは、ルルティリアのどこか歪みきった雰囲気が、全てを如実に物語っていた。
「ですから、古の盟約…いいえ、誓約を破棄する必要がございます。さぁ、お渡し下さい。次代の王の宣言は取り消せません。我らは約束を守る、ただそれだけですもの」
「ダメ!!王、渡してはなりません!!あれがあるからこそ、彼らは我らに力を貸すしかないのです!そのように、誓約に記載されておりますわ!!」
「…まぁ…」
「あれがあるから、うわべの信仰でもここまで守ってくれているのです!!ならこれからは心を入れ替えて彼らに祈りを捧げればよろしいではありませ「…身勝手ですこと」
悲鳴のように叫ぶ王妃をちらりと見て、ルルティリアはゆっくり手を上げ、一本線を引くように横にすいっ、と指先を動かした。
「………え」
言葉を発する前に、違和感を覚えた王妃は慌てて首を押さえる。
噴き出す前にその部分を触り、止めたから良かった、と言えばいいのか…何と言えば良いのか最早分からなかった。王妃が装着していた白いレースの手袋が、みるみるうちに赤に染まっていく。次々溢れる血を、王妃はその手で必死に押さえていた。
「……っ、く…ぉ」
国王陛下、と言いたかったのだろうか。うまく言葉を発することができず、ごぷり、と王妃の口から血が零れる。
それに悲鳴をあげたのは王太子であるアルハザードである。正妃であり己の母である由緒正しき公爵家の令嬢だった母が、あまりに呆気なく生を終えようとしているこの瞬間を、目の当たりにしてしまったのだ。
「母上!!!!母上ー!!!!」
「うわべの信仰とはいえ、誓約があったから、あなた方を守り、力を与えていたにすぎません。そちらの王太子の行動や王家の行動、民の行動、何もかもがわたくしやお父様の逆鱗に触れまくりですのに、…『心を入れ替えて』ですって?」
はあぁ、と深い深いため息を吐き、蔑むようにルルティリアは会場全体をぐるりと見渡した。
「あら、皆様何をそんなに怖いお顔をしていらっしゃいますの?皆様方は、数え切れない我が同胞を亡き者にしたではありませんか」
「うるさいうるさいうるさい!!お前たちはすぐ魔術で傷を治すから痛くも痒くもないだろう!それを…っ、魔術を使えない我らをそうやって傷付けるなど、血も涙もないのか、化け物どもめが!!」
「…はぁ?…まぁ、そんなに言うなら傷を塞いでさしあげましょうか…」
ルルティリアが掌を上に向け、ふぅっと息を吹きかければキラキラとした細かな粒子が手のひらに集められる。それを王妃の方に向かい、吹きかけた。
その粒子が王妃の首の周りを緩やかに回る。
流していた血はいつの間にか消え去り、王妃の血に染った手袋はそのままで、みるみるうちに顔色も戻っていく。
「…………っ?!」
痛みも何も、無くなっていた。
膝をついていた王妃は慌てて首を確かめる。
そこにはもう何も無い。だが、自身の血に染ったレースの手袋が全てを物語っていた。べっとりと濡れ、己の血を吸った手袋を慌てて脱ぎさり、ガチガチと歯を鳴らして怯えている。
「はい、これでご満足?」
壊れた玩具を直すように、あまりに簡単に治してしまった彼女を、アルハザードは変わらず睨み付けていた。それまで興味なさげにしていたルルティリアだったが、さすがにイラついたのか、アルハザードにかけている重力を重くする。
「ぁ……っ!」
自分の体が軋む音がする。
このままでいればいずれ、全身の骨を砕かれて死んでしまう。死の恐怖が目に見えるところまで歩いてきている。
必死に頭を回転させ、何かを言おうとしているが、口を開くことすらできそうにもなかった。
「望み通りに傷を治し、天に還ろうとしていた命をわざわざ引き留めてさしあげたのに睨むだなんて。…どのような教育を受けたらこのようになるのでしょうねぇ…?」
「姫様!!!!!」
悲鳴のように呼ばれ、ルルティリアはそちらを振り向く。
名前を呼んだのは、自国から来ていた人間に対してとても好意的な従者であった。
「どうか、どうかお怒りを鎮めてください…!」
「親人間派のお前達の顔を立ててやろう、とお父様からの言葉があったから…こうして婚礼の儀を迎えた結果がこれです」
「そ、その…」
「お前達の良きところでもあり、悪いところでもあるわね。帰ったらそれについては、きちんとお話しましょう。それに、わたくしの怒りはすぐ収まるわ」
にこりと笑って国王夫妻を冷めた目で見据えた。
「かつて交わされた誓約書を我らに返していただいて、加護も何もかも全て引き揚げたら、ね」
決してアルハザードに対する重みは変えぬまま、姫は微笑んだ。
これまで人の為に使われてきた力が、人を害するために使われるようになった。
だが、人は思う。
『魔術封じさえしてしまえば、奴を従わせられる』と。
それこそが、間違いであることには気付かぬまま。
守る(護る)対象を変えることでバレないようにしていた姫様。案を出したのは故郷にいらっしゃる本来の婚約者様です。
傲慢になれば見捨てたくなるのも仕方ないというもの。