第一話 片腕の獣
陽の光がほとんど届かない暗い森。ここに足を踏み入れてから二週間以上経つが、まともに寝ていない。
眠いなんて感情すら湧かないほど俺は限界を迎えていた。
視界がぼやけ、意識は夢現の境に。力が抜け手に持っていた写真が落ちる。
座ったまま眠りに落ちかけていたその時、
グヴオォォォーーーーーー
何かの呻き声で俺の意識は現実に引き戻された。中途半端に眠っていたところを無理矢理叩き起こされた事で心臓が激しく音を立てる。
俺は何度か深呼吸し動悸を平生に戻す。
「あ、あぁ……」
睡魔に襲われ負ける前まで手でしっかりと持っていた写真が、気がつけば火の中で燃えている。
睡魔に負けて焚火を消し忘れたせいだ。
大事な仕事の写真だったが、燃えてしまっては仕方ない。
写真の裏にはその女がいるであろう住所が書かれていたが、もう必要ないはだろう。この森を抜ければすぐの所まで来たのだから。
仕方ないと思いながらも、火を消していれば、と後悔する。一度深呼吸をし、気持ちをリセットしたところで、焚火の向かいに座っている狼が見えた。
「またかよ」
俺はため息をつき軽く睨めつける。が、狼は微動だにしない。仕方なく「ほい」と、小さなイノシシを狼のそばに置く。すると咥えて暗闇の中に消えていった。
ここ数日はずっとそうだ。夜になるとどこからともなく俺の元へ来る。そして俺が捕まえた動物の肉を貰えるとすぐにどこかへ去っていく。
襲ってこないのは、俺を生かしておくメリットの方が大きいからだろう。
肉がなければあの狼は俺を問答無用で襲ってくるだろうし、俺が肉をあげ続けたところで狼は「肉をくれる人」としか見てないのだろう。
肉をあげる義理はない。見返りはない。なんで俺はこんなことしてるんだ?
「――っ!」
さっき聞こえた呻き声が近づいてきているのは知ってたし警戒もしていた。それなのに気づけば俺の体は後方へ吹き飛んでいた。その衝撃で火が消え、視界が真っ暗になる。
何をされたのか分からなかった。でも大した威力はない。この程度なら余裕で仕留められる。
咄嗟に立ち上がり拳を強く握った。耳に神経を集中させる。既に呻き声は止み、足音だけが聞こえる。
音の聞こえる方を殴るが、ただ空を切るだけ。何度やっても同じだ。
次第に殴るのが面倒になり諦めかけた瞬間、右脇腹を何かで刺された。俺はとっさにその何かを掴む。
ポケットから懐中電灯を出して傷口を照らした。
腹部を貫いている三本の爪。俺より少し大きい、右腕の無い体。鋭い牙と金色の眼、黒い角。全身を覆う灰色の毛。
獣の全体像を捉えた俺は懐中電灯を地面に落とし、袖口から小さなナイフを出す。素早く腹部を一突きした後、ナイフを捨てて傷口から左手を突っ込んだ。生暖かく柔らかな感触に包まれながら腹の中をまさぐる。
瞬間、鼓膜が破けそうなほどの咆哮。そしてすぐさま俺の右肩に噛み付いてきた。深くまで歯が刺さり血が流れているが、食いちぎられるほどの力ではなかった。
「さようなら」
俺は腸を掴み思い切り引き抜いた。
それでもしばらく獣は右肩を離そうとしなかったが、やがてもたれかかってくるようにして死を迎えた。
動かなくなった獣を、傷が悪化するのを承知で無理矢理引き離す。
懐中電灯を手にし、血塗れたナイフを拾ったあと辺りを照らす。
小腸を掴み死体を引きずり回しながら闇雲に歩き回ること十数分。ようやく自分の荷物を見つけた。とは言っても懐中電灯一つで探したにしては意外と早く見つかり安心した。
リュックから小瓶を出し、透明な液体を傷口に一滴ずつ垂らす。
「勿体無い」
半分以下になった瓶の中の液体を見ながら少し後悔する。
次にリュックからマッチと細く短い木の枝を十数本、まつぼっくりを数個取り出し、周辺から小枝をかき集める。そして先程まで焚き火していた場所に再び火をつける。
火が燃え広がり、辺りが少し明るくなる。ホッと一息つきながら俺は獣の腹の中に顔を入れて血を飲んだ。獣臭くて生臭い。美味しいとは言えなかったけど喉は潤った。
動物のように手を使わず頭を突っ込んだまま次は内臓を食べた。これも獣臭かったが悪くなかった。
焼けばもっと美味しくなったはずだ。なのに焼かなかったのは火力が足りないから。それに時間が惜しいからだ。
だんだんと弱まる火を目の前に、俺はナイフで獣の皮と肉を切り分ける。
でも俺にはナイフを上手く扱う技術がない。今までもそうだった。慎重にやっても皮に肉が残ったり、皮が裂けたりする。
上手くない、と言うより下手くそだ。何かを刺す、くらいしかまともにできない。
それでも、この獣の皮はどうしても綺麗に剥がしたかった。
数十分後、骨と肉と皮がぐちゃぐちゃになった獣の無残な姿を見て俺は涙を流した。どこでどう間違えたのか。骨を綺麗に抜き取って肉を綺麗に削ぎ落とすつもりだった。
泣きながら肉と毛の付いた皮を手で雑に引き裂く。それから肉片についた毛や骨片を取り除いて口に入れる。
こんな悲しいのに美味いのが腹立つ。
まだ手をつけていなかった頭と左手だけを残して全身の肉を食べ尽くす。
左手の爪と頭をどうしようかと考えていた時に火が消えた。
寝るか。
今までの疲労、さらに食後ということもあってか、抗い難い睡魔が再び俺を襲った。
死んでも仕方ないか。
俺は木にもたれかかり、獣の左手はリュックにしまう。そして獣の頭と抱きかかえながら眠りについた。




