第85話「虚空界」
夫の庄司は日常的に暴行を行っていたようだ。家計を支えていたのは彼女だが、給食費も払えないほど貧困を極めていたらしい。それでも、このアパートを引き払わなかったのは、幸せな日々を取り戻したかったから。
永君を置き去りにして仕事に行くのは心苦しかったが、生活の為には、そうも言っていられない。出勤の際、永君と顔を合わせればいい、そんな生活だった。
夫は帰って来ず、たまに帰ってくれば暴力を振い、やっとの思いで稼いだお金を奪い取っていく。幸い、永君に暴力を振うことは無かったようだが、あの日、殺されるかと思うほどの暴力の嵐に襲われた。一旦、意識を失い、目覚めた時、庄司は泥酔していたらしい。もう少ししたら永君が帰ってくる。そう思い声を掛けたところ、再び殴られたそうだ。
今度こそ殺される。揉み合いの末、気付いたら旦那を紙紐で絞め殺していた。
夫の遺体を幼い永君に見せるわけにはいかない。けれども自身がいなくなったら我が子は、どうやって生きていくのだろう。そうして恐怖に慄いていた時、休日だった綾崎が訪れた。
以前、永君が家の鍵を忘れた際世話になり、その後も交流があった彼は、自身をストーカーだと偽り殺人犯にするよう提案をした。
水商売をして働いていた彼女は盗撮の写真を送りつけられることも屡々で、偶然それが家にあったらしい。慌てて部屋に持ち帰った綾崎は部屋中に、それを貼りたぐる。凶器やあらゆるものに指紋をつけ、最後に持参したナイフで刺したそうだ。
この状況で絞殺はおかしい。包丁で刺した後、動きを奪い絞殺したことにしよう。はじめは「そんなことはダメだ」と言っていた菫さんも、綾崎に丸め込まれたらしい。
「『あなたが穢れないのなら、あの子が笑って生きられるのなら、俺は喜んで罪を被ります』そう言われたら何も言えなかった。私は何も悪くない綾崎さんに罪を擦り付けたんです」
ぽろぽろと涙を零した菫さんが己の罪を吐露する。目を伏せながら、横で静かに耳を傾けている綾崎は悔しそうに眉を顰めていた。
何故そこまで出来たのかが分からない。彼女が彼に頼る理由は分かるが、彼が何故、彼女をそこまでして助けるのかは分からなかった。
恐らく狼谷君は、それを知っているのだろう。そして、それが告げられない過去というやつなのかもしれない。
「すみませんでした……綾崎さんも……」
「先程、刑事を呼びました。別れは済ましてきましたか」
「はい……」
「陽正、明日香を呼んだから彼女を預けて来て」
「分かった」
菫さんの両手に手錠をかけ連行する。外に出ると明滅するパトカーが停まっていた。しかし、そこにいたのは犬養さんではない。
「猿島警部」
「日辻、早くしろ」
「は、はい!」
歩みを早め、敬礼する。色々と聞きたいことはあったが、いち早く戻らなければならなかった。
逸る足で駆け足気味に綾崎の部屋へ舞い戻る。そこには真摯な眼差しで私を見据える綾崎がいた。
「話さなければいけませんか?」
「お好きにどうぞ。聞きたがっているのは彼女ですから」
「狼谷君は私にこう言いました。〝普通に生きてきた人間には分からない〟と。けれども、それではダメなんです。私は、どうしてこういう事件が起きてしまったのかを知りたいんです。知れば救えるかもしれない。私は人の心に寄り添いたい。その為にも話してくれませんか。綾崎さんが、何故あの親子に、そこまで肩入れしたのか知りたいんです」
「……そういう風に言っている間は、きっと理解出来ないと思いますよ。でも、もう俺は犯罪者だ。清く生きる必要はないからね。……面白くはないよ。不快な表現もあると思う。それでも俺の話を聞きたい?」
「はい」
「変な刑事さんだね」
「変、でしょうか。よく馬鹿正直だとは言われるのですが」
「いいことだよ。馬鹿正直に生きられた人が羨ましい。貴女は愛されて育ったんですね」
柔らかな笑声と共に、微笑を浮かべた彼が目を伏せる。瞼が持ち上がった時、形の良い唇が開く様を、私は須臾も見逃すまいと見つめ続けた。




