第83話「空おぼれ」
「なんで?」
「菫さんと永君の関係は、まるで犬養さんと狼谷君だった。そして永君と綾崎の関係も……そこに一つの感情が芽生えた。でも狼谷君、それは私情だよ」
「陽正だって私情だらけじゃん。俺に言えんの?」
「狼谷君は言ったよね。『愛されて生きてきた陽正に〝持ってない者〟の気持ちは絶対に分からない』って。でも狼谷君も知ってる筈だよ。〝愛情〟ってやつを」
「そんなものは知らない」
「知らないなんて言わせない」
「そんな風に言えるのはアンタが愛されてるからだ」
「あなたが言ったんじゃない。私は家族に愛されてるんだね、って。愛が分かるのは愛されたことのある人間だけよ」
「アンタが愛されてるのは誰が見ても分かるよ。俺は誰にも愛されてない」
「犬養さんに愛されてるじゃない!」
「明日香は親じゃない!」
「血が繋がってないからなに!? 犬養さんはあなたを愛してくれたでしょ!?」
「親に愛されてたアンタには分かんない」
「あなただって私の親のこと知らないじゃない! どれだけ理解がなかったか、どれだけうるさかったか! でも親との思い出って、いいことばかりじゃない。そういうマイナスな言葉だって、私を……子供を愛してくれてるから出てくる言葉なのよ! あなただってそうでしょ!? あなたが嘘吐きなのが悪いんじゃない! あなたが自分に嘘を吐くから悪いのよ!」
「そんなことは綺麗事だ!」
「綺麗事だっていいじゃない! これは美しい真実よ! あなたは親に愛されてた! 愛を知ってた! 愛してくれた人に理解して欲しかったから悲しかったんでしょ? 愛されてると思ったから親が大好きだったんでしょ? 愛されてたから助けに走ったんでしょう? 殺されて悲しかったのは愛していたからでしょう? ほら、あなたは愛を知ってるわ。嘘を吐かないで。自分に嘘を吐かないで。それはあなたを苦しめるだけでしょう? 真実は一つ、あなたは愛されてた。今も愛されてるのよ」
「俺は……!」
「だから大丈夫だよ? 狼谷君が話しても、誰もあなたを責めない。ねぇ、私に協力してくれない?」
「こんなところで何をしているんですか?」
アパートにはまだ遠い。声の聞こえた方を振り仰ぐと、綾崎が胡乱な眼差しで此方をジッと見据えていた。
昨日の今日では、まだ警戒心が抜けないらしい。自身を繕う余裕すらないらしい狼谷君は、彼から目を逸らし、唇を真一文字に引き結んでいた。
「また来たんですか。今日は新人刑事さん?」
「もう新人、なんて感じではないですが」
「今日はあの美人さんはいないんだね」
「そうですね。今日は私がお話を伺いに参りました」
「どうしてそんなに拘るんです? この事件はよくあるようなことでしょう? 判決が出たにも関わらず、今から何をしようと言うんです? 犯人が私ではいけないんですか?」
「永君の為です。子供の語る〝本当〟を私達大人が信じなくてどうするんでしょうか」
「いつになったら諦めてくれます?」
「真実を話してくれるまで」
「真実はあなた方が書類に記した事項ですよ。それではこれで失礼致します」
線の細さが顕著に表れた楚々とした背中が遠ざかっていく。女性のような淑やかさを携えた彼は、鋭利な口調で捨て台詞を吐いていった。
「今日は帰ろうか。狼谷君も、よく考えてみて」
「陽正は!」
半ば叫ぶように引き止められる。瞳の奥の世界は揺れ、私を惹きつけた。
「俺にどうしてなって欲しいの?」
どうなって欲しい、とは、どういう意味なのだろう。けれども、この世界が彼に優しく在れば、と思う。
偽り、繕い、仮面を象る。それらはどう足掻いても辛苦を伴うのだ。〝本当〟だけで生きていけるほど人は強くない。それでも〝嘘〟だけで生きている彼の世界を変えたいと思った。『あなたが本当の姿で生きてもいいんだよ』と。
「幸せになって欲しい」
「幸せ……?」
「そう。普通の人が得られるような幸せを、狼谷君にも味わってほしい」
きっと、それは砂糖菓子のように甘い筈だから。
私の言いたいことは二人に届いただろうか。私は、そうして家路を歩んだ。敢えて、彼を置き去りにして。




