第82話「雲居の空」
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「勤務時間外なんだけど」
「高校生に勤務時間外なんてあるの?」
「俺に陽正を待たなきゃいけない理由はないでしょ」
「確かに、そうね」
「今日は素直なんだね」
「私は馬鹿正直だから」
夕刻の空が傾き終わっている。繻子の如き光沢を放つ夜空の下、私達は白い呼気を交わした。
視線を絡めて、言葉を酌み交わす。たったそれだけのことにすら緊張していた。彼の心の闇は、この夜空より深い藍色なのだろう。そう、あくまで藍色なのだ。鈍色にしかなれない黒暗とは違う。彼は絶対に変わることが出来るのだ。
「付き合ってくれるんでしょ?」
「陽正は謎解きがしたいんでしょ? 行くのはいいけど俺は話さないよ」
「いいよ。霊と、そう約束したんでしょ?」
「なら、どうして呼び出したの? 明日香には内緒で」
犬養さんには言わなかった。私さえいれば事件の解決は出来る。それは勿論、逆も然り。けれども、犬養さんに出来ないこともあるのだ。
「狼谷君の心を解きにきたの」
愛とはなんだ。
愛されることとは。
愛することとは。
結局のところ答えは十人十色なのだ。〝愛〟とは彩り豊かだからである。けれども、愛とは自覚しなければいけないものなのだ。注ぐものでも、注がれるものでもない。自認することで愛は成立する。愛を注ぐ者と自認する者がいてこそ〝愛〟が成立する。つまり、その状況が〝愛される〟ということになるのだ。
産声を上げた瞬間、人は愛される。赤ん坊は純粋無垢。私達は本能で愛されていることを実感する。そして物心がついて、成長して、恋を知り、愛を注ぐ側へと変わるのだ。それは時に立場を入り替えながら深さを諒解していく。そうして人は、愛を語る術を学ぶのだ。
狼谷君は成長の最中に、その機会を失くした。だから彼は知らないのだ。〝愛〟というものを。けれども彼は知らないのではない。忘れているだけである。何故なら——
「どういう意味?」
「狼谷君は、この事件の真相を知っている。私は、その真相を知りたい。でも、狼谷君は何故か教えてくれない。そこで私は考えたの。狼谷君が言っていた言葉の意味を」
歩きながら話そう、その意思を垣間見せながら緩慢に歩む。静寂の冬道に足音が二つ。アスファルトを蹴る靴音は、やけに大きく響いているような気がした。
「『愛されて生きてきた陽正に〝持ってない者〟の気持ちは絶対に分からない』そこから推測されるのは、やっぱり永君が虐待されていたという事実。救いたいのは永君。永君が愛されていなかった、という事実。
でも、そこでよく考えた。狼谷君が話していたのは〝誰〟なのだろう、と。狼谷君が話した霊は綾崎に憑いていたお爺さん。狼谷君の言葉が指す人物を永君だとすると、どうしても矛盾が発生する。
綾崎と永君を無理矢理繋ぐ手立てもあった。例えば永君の本当の父親が綾崎で、それを知られた為、旦那を殺害。責任を感じた綾崎が菫さんの犯行を自身だと偽り自首をする。でも、そんなことが起こる確率は無いに等しい。
だから原点に戻って〝誰〟を守りたいのかを考え直した。答えは単純、狼谷君が守りたいのは〝綾崎〟なんだよね。そして、この事件の真実は綾崎に優しくない。優しくないから霊は狼谷君に頼んだ。綾崎を守って欲しい、と」
「だったらどうするの?」
「そして更に考えたの。どうして狼谷君が、そこまで肩入れをするのかを」
探すべきは共通点。遺恨。悔恨。要因は様々ある。けれども、答えは彼を想うだけで容易に算出出来るのだ。
「犬養さんを彷彿とさせたから、なんじゃない?」




