第78話「膂宍の空国」
「仁科さん」
たった一言。たった一言で綾崎は狼狽した。見るからに蒼褪め、瞳を泳がしている。片手に持っていた鞄を両手で抱いた彼は、胡乱な眼差しを私達に向けていた。
「……誰ですか?」
「裕一郎さん、と言った方がいいですか?」
「だからなん……」
「貴方がやったことを全て聞きました。悔いているなら彼女達に真実を話してください。そうじゃないと永君が悲しみますよ」
「あの男を殺したのは私です! あの二人は関係無い!」
「そうですか。明日、また来ます。帰るよ、明日香、陽正」
「待って!」
「何?」
「綾崎、さんはやってないんでしょ?」
「俺は、そうは言ってない。そしてそれを語れるのは、この人だけだ」
「どうして? 真実を知ってるなら早く……」
「陽正には分からない」
「どういうこと?」
「愛されて生きてきた陽正に〝持ってない者〟の気持ちは絶対に分からない。だから黙ってて。黙ってて欲しいと願ってる人がいるんだ。でも全ては本人が決めること。綾崎さんが自分の言葉でちゃんと伝えられるなら、それでいいって言ってたんだ」
「……分かった。今日は帰ろう。綾崎さん」
「なんですか?」
「永の〝超能力〟を貴方は信じてあげたんですか?」
「サイコキネシス?」
「信じてあげたんですね。じゃあ、これを。ご連絡を待っています」
名刺を取り出した彼女が、綾崎のポケットに突っ込む。納得いかないことだらけの私を引っ張ったのは狼谷君。無理矢理、後部座席に押し込められた私は怒りの矛先を彼に向けた。
「霊と話が出来たんでしょ!?」
「出来たよ」
「真実が分かったんでしょ?」
「そうだよ。綾崎さんはやってない」
「そんなの……菫さんが犯人だって言ってるようなものじゃない!?」
「そうだね」
「どうして嘘を吐かないの……?」
「言ったでしょ。普通の人間に、普通じゃない人間の気持ちは分からないって」
「何を今更……蟹江君の時だって真実を……!」
「陽正は、自分が辛い想いをしたからって、他の人にもさせるの?」
「真実に勝るものはないって犬養さんは言ってた! 私の仕事は真実を暴いて……」
「暴いてどうするの? 誰も救われない結末に何があるの? 明日香は誰かを守る為に刑事をやってる。陽正の正義はどこにあるの? 真実を暴くこと? ねぇ、それって……」
——猿島と変わらないね。
呪詛のような口舌が纏わりつく。嘘じゃないからこそ血の気が引けた。
彼を糾弾した自身が同じことをしていただなんて笑い者だ。吐き気が込み上げる胃を押さえ、シートを見つめる。その後、動き出した車内で、誰も言葉を発することはなかった。
私は変わってしまったのだろうか。麻痺する心胆が刑事になることの証なら、立派な刑事じゃなくていいと思った。
悲しい思いをする人間がいない世界へ。そう思っていたのに。今の私には、ただの夢物語に他ならない。
痛めた心は何が為?
自問自答に、有り触れた呼気を吐き出す。答えは、やはり分からなかった。




