第73話「空に知られぬ雪」
「突然、押しかけてしまい申し訳ありません。私、三課の犬養明日香と申します。此方は部下の日辻、覚えているでしょうか?」
「え……あぁ、よく怒られてた刑事さんですね」
「はい、お久しぶりです……」
私には〝怒られている〟という印象しかないのだろうか。社会人にもなって恥ずかしい、という思いと同時に、猿島警部のせいで、という怒りも浮かんだ。
どうやら部屋の間取りは綾崎宅と同じらしい。玄関の扉を潜ると短い廊下があり、ダイニングキッチンが備え付けられている。二つの部屋は寝室と子供部屋といったところだろう。綾崎宅では寝室と仕事部屋に分かれているようだったが、間取り自体が変わらない為、目ぼしい違いはなかった。
「失礼を承知でお伺いします。生活が苦しかったりしませんか?」
黙り込んだ彼女がテーブルの上で組んだ両手に力を込める。眉を顰め、黙り込む様は肯定以外の何物でもなかった。
「引っ越しを考えてみては如何でしょうか。殺人犯が隣人では……」
「隣の人は、もうずっと帰ってきていません」
「ずっと、ですか?」
「はい」
「いつから?」
「さぁ。でもこのアパート壁が薄いので帰ってくると分かるんです。少なくとも普段、家にいる筈の時間帯には一度も帰ってきてません」
「随分と詳しいんですね。本当に交流があったわけではないんですか?」
「そんなわけないじゃないですか。やめてください」
ストーカーをされていたのなら、この態度も頷ける。盗撮された写真を何百枚と送りつけられ、欲の籠った眼差しを送られ続けたのだ。同じ女として同情したくなった。
「旦那様には、いつから暴力を?」
「あの日が初めてです。それまでは優しい人でしたから」
「永君にも優しい人でしたか?」
「それは警察にお話した筈ですよね。今更なんなんですか」
「申し訳ありません。永君の身体に痣があったものですから気になってしまい。もしも旦那様が暴力を振っていた、ということなら、もう心配することはないでしょう。ですが、もしも……」
「もしも何ですか!? 私が虐待しているとでも!?」
「いえ、ですが、そのシンクに溜まった食器では、ちゃんと食べているかも怪しいので。色々なことがありましたし、お母様の精神状況が優れない可能性もあります」
「引っ越しなんて出来るものならしてるわよ! 前から大家とは折り合いが悪いし、あの事件があってからは疫病神扱い……それに、いくら部屋を綺麗にしたって死体が転がってた場所に平気な顔して住めると思う!? でも暮らしていくのでやっとだし、家を探す時間もないのよ」
「保険とかは?」
「保険をかける余裕なんか無かったの!」
「給食費の滞納はお金の問題ですか?」
「ええ、施設に入れろとか、そんな話なら帰ってちょうだい。夜からまた働きに行かないといけないのよ」
「その間、永君はどこに?」
「この家よ!」
「どこかに預けるとかは……」
「だからお金がないのよ!? 沢山稼いでる刑事さんとは違って私はその日暮らしなの!? 水商売してるって言えば奇異の目で見られるし、沢山稼いでるって思われがちだけどそんなことないのよ!? お願いだから帰って……休ませてよ……」
金切声で喚き散らす様に犬養さんが目を伏せる。テーブルに肘を立て頭を掻きむしる彼女に、犬養さんは優しく言葉を紡いだ。
「色々とすみません。家庭の事情は様々です。中には『助けて』と声を上げられない人もいるので過剰に心配をしてしまいました。菫さん、もしも何かありましたら電話をください。相談に乗りますから。それから自首するなら今のうちですよ」
「え……?」
「どういった経緯で……いえ、お二人が恋仲だったのなら代わりに綾崎が出頭するのも頷ける、というだけなので」
「私を疑ってたの……?」
「永君はアタシに『超能力で人を殺した』と言っていました。そして綾崎が犯人ではない、とも。ということは、自ずと真犯人は一人に絞られる。菫さん、アナタに」
「なに、言って……」
「猶予を与えましょう。アタシにも子供がいるんでね。考える時間をあげます」
「私はやってない!!」
「それならそれでいいでしょう。永君に胸を張れるご決断を。それでは何かありましたら此方の番号に」
素早く立ち上がった犬養さんが名刺を差し出す。机上を走った白い紙切れを追いながら目を瞠っていると肩を叩かれた。
慌てて立ち上がり頭を下げる。混乱する脳漿を携えながら、犬養さんの後を付いて行くと、玄関を開けた先で眩いほどの陽光に襲われた。
菫さんが犯人? 綾崎と恋仲? それらしい物的証拠は無かったし、先程まで彼女はそんなこと口にもしていなかった。ということは、どういうことだ。私には分からなかった何かを、犬養さんは見つけたとでも言うのだろうか。




