第61話「悪戯」
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陽光の下を白い靄が彩る。中庭で思惟に耽る猿島警部を、私は苦い思いで見つめていた。これで全て終わる。全て終わってしまう。終えられるのだ。だから泣いてはいけない。私は刑事なのだから。
合図は一瞬。その刹那を見逃さないように私は目を凝らした。視界の先には中庭に降り立った猿島警部がいる。周囲には誰も居らず、中庭には彼の足跡が散りばめられているだけだった。
ガラス戸を開け放ったままの為、冷気が此方にもやってくる。浴衣では動きにくい、と私服に着替えた為、寒さはそこまで感じなかった。それでも肌を撫ぜるのは、突き刺すような颪で、私は粟立つ肌を摩りたい衝動に駆られた。
舞い上がる真実に、反転した砂時計に、私の心が荒れていく。本当は子供のように膝を抱えて蹲ってしまいたかった。けれども祖父が見ているのならば逃げられない。刑事になることを応援してくれた唯一の人を、私は裏切ることが出来なかった。
人影が、ふらりと漂っている。真実に身を染めた私は、驚くでもなく前を見据えた。全ては狼谷君に任せることになっている。私がするべきことは猿島警部を守ることだ。
「何をしているんですか? 蟹江さん」
「何って、ここは冷えるし犯人がいたら危ないからさ。猿島警部を迎えに来たんだよ」
猿島警部の背には蟹江君、更にその後ろには不気味なほど満面な笑みを浮かべている狼谷君がいた。
浚いの風が粉雪を舞い上げ私達を揺らす。氷刃のような眼差しは須臾のもの。何事も無かったかのように笑みを浮かべた彼は、悪足掻きだと分かっていながらも定型文を口にした。
「一連の事件の犯人はアナタですね。蟹江大地さん」
「もー、何言ってんの? 第一、俺は襲われたんだし……」
「もう一度、教えてくれます? アナタがどんな風に襲われたのか」
「忘れちゃったかな? 突然背後から襲われて。だから犯人は……」
「詰めが甘いんですよ」
「は?」
「どうせ隠す気は無いんでしょう? いいじゃないですか。ぶちまけてしまえば。どうせアナタは〝逃げられない〟」
——〝逃げられない〟それが聞こえたら出てきて。でも、その前に……
「殺されそうになったら出てきて、か」
そんなこと言われなくても助けてみせる。けれども、その心配がないことは分かっていた。だって彼は〝心優しい人間〟で〝刑事〟なのだから。
「犬養さん、と陽正……」
「おかしいですよね。どうして突然背後から襲われて殴られたと同時に『陽正、逃げろ』なんですか?」
「それは……」
「普通、叫び声を上げて終わりですよ。アナタの証言が何よりの証拠です」
「いやいやいや! 俺じゃないから! それに、それじゃ弱いよね?」
諦念の入り混じった声音に涙を誘われる。笑みは儚く、彼自身が今にも溶けてしまいそうだった。
それでも否認はするのだ。それは何の為の否定なのだろう。誰の為で、何の為で、何を考えているのだろう。解りたいと思うのに、私には理解出来なかった。
「陽正も惑わされないでよー、俺が陽正を襲うと思う?」
真っ直ぐに私へ向かってくる彼は、いつも通りの笑みだ。先程の様相は感じられず、思わず頭を振ってしまいそうだった。
——いい? 陽正は何も話さないで。
狼谷君との約束を守るかのように、唇を真一文字に引き結ぶ。眉を顰めた私に、彼は「どうしたの?」と不思議そうに紡いでいた。
決意が揺らがぬよう、彼の背後に位置する世界を見渡す。猿島警部は中庭に降り立ったままだし、犬養さんは私の横で身を固くしていた。狼谷君だけが、この場を制するように余裕の笑みを浮かべている。それでも腕を組む姿に彼の覚悟が見て取れた。